2009年10月30日金曜日

Kさんのお父様の遺品


 もうかれこれ二年経つのだろうか。記憶が定かでなくなっているのだが、ある日上荻のKさん宅へMさんご夫妻、それに別のMさんと私の四人でお訪ねしたことがあった。その時はすでに戦死されたお父様の遺されたお手紙をお引き受けして転写し始めていたように思う。

  Kさんは私たちにお父様の遺品(主に書籍類)をお見せくださり、「父の遺品です。記念に持ち帰ってください」と言われた。私は余りにももったいない思いがしてその時、一冊の古色蒼然とした本を譲っていただいた。それがこの9月初めに紹介(※)させていただいた『聖書之研究』(1923年270-281)という内村鑑三主筆の合本であった。

 1923年と言うと1911年(明治44年)生まれのお父様がまだ12,3歳の時である。従って長ずるに及んでこの合本を古本として手にされたように思う。合本に記されていた赤のサイドラインをお父様の引かれたものと9月初めの「関東大震災と内村鑑三」の項目では言ってしまったが、最初の持ち主が引かれたのかもしれない。それが時を隔てて今私の手許にある。

 これらの合本には畔上賢造氏はじめ内村とともに無教会の形成に加わった方々の貴重な論考が並んでいる。(ルターの卓上小話も畔上氏の訳で掲載されており、内村のマダガスカルの宣教の歴史を述べる記事もあり以前ブログで述べたことに補充が必要なことも知った。)三谷隆正氏のデビュー作「カントの有神論」も載っている記念すべき号だ。

 ところが9月中旬にお父様が先生と仰いでおられた藤本正高氏の著作集を古本で見つけ思い切って購入することにした。その本を通して藤本正高氏が最初教会の牧師であったがその後、無教会の群れに移られた方であることを知った。それとともに藤本正高氏の転機になった一つにこの1923年の『聖書之研究』があったことを知った。

 それは、どういうことであったか。9月初めの「関東大震災と内村鑑三」の記事紹介の折、震災より有島事件がどれほど人間の霊性を駄目にした事件かわからない旨のことを内村が吐露している文章を紹介したが、この内村の指摘が若き藤本正高氏の曖昧なキリスト信仰を叩きのめしたものであったのだ。

 藤本氏は当時旧制中学の5年生であった。すでに主イエス・キリストを信じていたが、一方有島武郎の作品の愛読者でもあり、当時の新聞や雑誌が有島氏が情死したことに同情的であった中で、内村の『聖書之研究』277号の記事および前回引用させていただいた279号を通して大いに悔い改めさせられたということであった。

 この藤本正高氏がKさんのお父様お母様の結婚式の司式を行なわれた方である。私はお父様がお母様に宛てられたものを中心とする57通の手紙(1938年~1944年まで)を転写する中で、しばしばこの人のきよい信仰はどこから流れてくるのだろうかと思わされていた。それは言うまでもなく師であり兄弟である藤本氏たちの主イエス・キリストを愛する人々の交わりの中から生まれてきたものであった。

 二年がかりになってしまったこのお父様のお手紙の転写も先頃やっと終わった。これからその内容をよく理解して読み直そうとしていた。その矢先にこの著作集に出会った。不思議な導きを覚えた。

※詳細は「泉あるところ」http://livingwaterinchrist.cocolog-nifty.com/blog/

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は何と測り知りがたいことでしょう。・・・すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る・・・(新約聖書ローマ11・33、36)

(写真は拙宅玄関前の野菊。正確には「野紺菊」。「主愛す 野菊のごとき 生遺し」 。)

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