2009年10月22日木曜日

単調の中の殉教者(下) カウマン夫人


 私たちはモーセを記憶しています。偉大な解放者、律法の賦与者、預言者、指導者であるモーセを記憶しています。しかし、彼の兄であり、パロの前で彼の代弁者として奉仕したアロンを忘れています。

 私たちはヨセフを記憶しています。美しい髪をした夢みる者、パロに重んぜられて名声と財産を得、ききんに苦しむ家族を救ったヨセフを記憶しています。しかし、その父の世話をし、イスラエルの全家を顧みて、彼らを安全にエジプトに導いたルベンやユダ、その他の兄弟たちを忘れています。

 私たちは、新しい信仰の勇敢な創設者アブラハムを記憶しています。しかし、彼の伴侶であり、協力者であり、彼とともに犠牲を払い苦しみを味わったサラを忘れています。

 私たちはルツを記憶しています。しかしナオミを忘れています。ダビデを記憶していますがヨナタンを忘れています。

 そうです。非凡な者、めざましいことをし、魅惑的なことをやってのける者が、必然的にこの世の賞賛と歓呼の頂点に立つのです。しかし私たちは、その下にあって奴隷のようにこつこつと働いている人々にいつまでも変わることのない感謝をささげることを、決して忘れてはなりません。単調で平凡に見える日々の仕事に従事している人々の献身的なたのもしい労苦なしには、めざましいことは何一つとして成就されなかったということを思い起こすのは、よいことです。

 私たちの時代における最も驚くべき業績―原子核分裂―は、ほんの少数の科学者たちによって成し遂げられたものではありません。そうではなく、幾千という陰にある普通の男女が、最終のゴールがなんであるかを少しも知らず、いささかの報酬も期待することなしに、働いて働いて働き通した結果なのです。

 数年前のことですが、ある集会が終わった時、ひとりの婦人が私たちのところにやって来て言いました。

 「神さまが私を宣教師として召して下さっていればよかったのにと思いますわ。私は無益なたいくつな生活をしているのですもの。役にたたない平凡な仕事をして日々を送っているだけなのです」。 

 更によく話し合ってみると、彼女は教会の忠実な働き人であり、周囲の多くの人々によい感化を与え、彼らを豊かな生活、実り多い奉仕に導いているという事実がわかりました。

 人生は、美しいものであるためには大いなるものである必要はありません。小さな草花にも、堂々とした大木にまさるとも劣らない美しさがあり、小さな宝石も大きな宝石と同様に美しいのです。この上なく麗しい生活も、この世の人々から見れば目だたないものであるかもしれません。美しい生涯とは、この世における使命を全うする生涯です。すなわち、この世において神のみこころを行なうことです。ありふれた賜物しか持っていない人々は、美しい生活をすることができないのではないか、この世に祝福をもたらすことができないのではないか、と考える危険があります。しかし、神から与えられた使命を十分に果たしているつつましい生涯は、りっぱな賜物を与えられながら与えられた使命を果たしていない生涯よりも、神の目から見ればはるかにまさって麗しい生涯なのです。

 与えられたその場所で
 神に向かって素朴な歌をうたうだけ
 ただのつまらぬ小鳥です。
 でもそれは
 栄光を汚す歌をうたったセラフより
 あの堕落したセラフより
 どんなにすばらしいことでしょう。

(文章は『一握りの穂』より引用。写真の花は昨日散歩途中で見かけた草花。家人によると「かたばみ」と言い、どこにでもある花だということだが・・・。)

 カウマン夫人は『荒野の泉』の著者として多くのキリスト者に知られていますが、『一握りの穂』は1955年に書かれたもので小冊子です。このような珠玉の文章を全部で16編書き連ねています。それが10年後に翻訳され出版社から100円で出ていたのです。時は東京オリンピックの年でした。この本もいつの間にか人々の記憶の中から忘れ去られたのでしょうか。書棚に埃をかぶってあなたに読まれるのを待っているかもしれませんね。

時宜にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんごのようだ。知恵のある叱責は、それを聞く者の耳にとって、金の耳輪、黄金の飾りのようだ。(旧約聖書 箴言25・11、12)

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