2010年6月6日日曜日

悩みの地で クララ


「神がわたしを悩みの地で豊かにせられた」(創世記41:52)

 この証は何という輝かしい信仰の事実でしょう。これはまた人生の事実です。かつて主イエスは最後の聖晩餐の席で遺訓として仰せたまいましたお言葉に「あなたがたはこの世ではなやみがある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」とあります。

 ペテロも「あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚きあやしむな」と記しています。悩みなしには神の子の姿は生まれません。荒くれた大理石の塊が悩みの槌で一打ち一打ち邪魔ものをのぞかれて、遂に立派な像が出来上がります。事実この世は恵みの主を十字架にかけ、彼に従う多くの人を悩ましました。これは主に忠実であった人々の通らねばならない道で、聖書にも、苦難とそれにつづく栄光を教えています。神の人達はこの経験の事実のうちに作られたのです。悩みは誰にとっても楽な事ではありませんが、これなしには神の作品とはなれません。

 旧約でキリストの型の一人とも言われるヨセフが、理由なき苦難に悩まされながら、どんな苦しみの中にも真実であられる創造者に自分の魂を委ねて、主とともに歩み続けました。誰であっても私共お互いは生まれつきの己が能力や、己が判断で悩みには勝てません。もし自分の意地や力をたのみますなら人生の小舟は失望の海に沈没してしまいましょうし、旅路を照らす灯は嵐に吹き消されますでしょう。悩みよりも強くしたもうはただの神の恵みです。

 少年ヨセフは唯一人エジプトへ奴隷として売られましたが、見えざる同伴者が共に在(いま)し、不思議な夢の解説によって彼は獄より出されて大臣とされ、彼の故にエジプトは飢餓の日にも穀倉は豊かに、彼の指には王の指輪がはめられ、国の富はヨセフの意のままでした。彼はかつての悩みの地で豊かにされた記念にわが子をエフライムと名づけました。「神がわたしを悩みの地で豊かにせられた」と。

 ダニエルの三友人が王の怒りの火に試みられた時にも、その思い煩いを一切神にゆだね、神の子と共に火の炉の中を歩み、王に呼び出された時は高い位に上げられ、神の聖名は崇められました。悩みは豊かな恵みにかえられました。悩みが悩みのままであるなら人生は空しい事ですが、信仰によって受ける苦難は栄光とかえられます。

 百姓がよい畑を求めますなら、鋤をもって深く土を返さねばなりません。石をのぞいてよくたがやすなら骨折った百姓は先ず実を収穫します。よい家を立てようと願い、ふかく土を掘り岩を土台とするなら嵐にも倒れません。今しばらくのあいだはさまざまな試練に悩まねばならないかもしれないが、有限の世界において無限の世界を見上げつつ悩みの代価を支払う事の喜びを学びたいものです。愚かな心も悩みの日に戸惑う事なく、よりよき神の御意思に導かれ、更に祈り、更に信じそして更に耐え忍びますわが生涯は悩みを乗り越えて、豊かな祝福の道に進みつつ栄光の証人となり得ますように。

(『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著160頁6月5日の項目より引用。二三日前に庭の「にっこうきすげ」がアジサイに取り囲まれる中で、一輪、今年初めて花を咲かせました。)

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