2010年6月10日木曜日

キリストが人のいのちとなる ウオッチマン・ニー


 外側の矯正は役に立たない

 人は内側が悪いのですから、外側を矯正したとしても何の役にも立ちません。わたしに友人がいます。彼は南京から帰る途中、汽車が無錫を通過する時、小さな娘のために駅で泥人形を幾つか買いました。人形はどれも泥で作られています。外側にはとても美しい顔が書き込まれています。七歳になる彼女は、美しい顔をした泥の西洋人形をもらってうれしくてたまりません。すぐに母親の役を演じ始めました。少しそれを抱いていたかと思うと、またしばらくしてそれを下ろして寝かせます。食事の時間になると、彼女は人形にご飯を食べさせます。彼女はご飯とおかずを泥人形の口に押し込みながら、どうしてご飯を食べないのかと言っていました。そんなことをしているうちに、人形の顔には油とご飯がいっぱいついてしまいました。そこで彼女は母親がいつもするように、タオルと水で人形の顔を洗ってやりました。するとひとふきしただけで黒いものが現れてきました。もうひとふきすると、黒いものがもっと多くなります。ふけばふくほど、洗えば洗うほど、人形の顔はますますきたなくなるばかりです。ついには鼻や目や口などもなくなってしまい、彼女はどうしようもなくて泣き出してしまいました。父親は彼女に、「それを捨ててしまいなさい。もう一つ新しいものを買ってあげよう。泥人形は洗うことはできないんだよ」と言いました。

 命を交換しなければならない

 わたしはよくこの物語を思い出します。人の行為を改善しようとするのは、泥人形の顔を洗うのと同じようなことです。わたしたちは、高慢な態度を示さなければ、うそをつかなければ、立ち居振る舞いが穏やかであるならば、自分は良い人だと考えます。これはわたしたちの見方です。神は、人の外側が悪いのは内側が悪いからであり、必ず「いのち」を完全に取り換えなければならないと言われます。ですから、わたしたちの「いのち」は悪くて改良するのが不可能であることを認めて、必ず「いのち」を取り換えなければなりません。これがわたしたちクリスチャン信仰の根本的な点です。

 人が心に思うことは罪にすぎない

 ある日わたしは、いつも何か新しいアイデアを考えている友人と一緒に上海の大通りを歩いていました。その日、また彼は思いついて言いました、「わたしたちが他人の心を見抜くことができないというのはとても残念なことです。もしわたしたちが一目見ただけで、この人は何を考えているのか、あの人は何を考えているのかと見抜くことができたなら、これはとてもおもしろいではありませんか? わたしたちが人の心を見ることができないのは、実に残念なことです」。
 そこでわたしは彼に、「わたしたちが人の心を見ることができないのは、残念なことではなく、むしろ喜ばしいことです」と語りました。人が心の中で思っていることを憶測しようとしてはいけません。なぜなら、人の思うところはみな罪であるからです。わたしたちの思いの中にあるのは、どうやって盗むか、どうやって欺くか、どうやって裏切るかなのです。良い思いを見つけ出すことはとても困難なことです。すべての思いは、どれも公開できないものばかりです。幸いなことに、人の心は何本かの骨とわずかな皮によって覆われていますから、あなたには見えないようになっています。もし見ることができるのなら、急いで隠れなければなりません。

 人は主イエス様のいのちによって生かされる必要がある

 ですから、人の救いは、外側から始めることはできません。内側から始める必要があります。こういうわけで、主イエス様を受け入れ生まれ変わる必要があります。新しく主のいのちを得ることは、あなたの持っている汚れたいのち、悪いいのちを除き去り、それを新しいいのち、主イエス様のいのちと交換することです。これは魚に飛ぶことを学ばせるようなものではありません。魚の命を鳥の命と交換することです。そうすれば、自然に飛ぶようになります。罪を犯すいのちを捨てて、それを聖いいのちで置き換えることが、救いです。

(全集27巻『正常なキリスト者の信仰』153~155頁から引用。ただし引用に当たって引用者が表現を変えたところが数箇所ある。「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」黙示録22:17。友人からいただいた手作りの人形に帽子と洋服があてがわれた。一見美しくなった。しかし、言うまでもなくいのちは、人形には無い。当然だろう。この人形にも比すべき、いずれは座して死を待つしかない人間に、イエス・キリストにより永遠のいのちが、信ずるすべての人に無代価で提供される、と聖書は語る。)

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