2010年6月23日水曜日

国会図書館通い


 ここ数週間、国会図書館に通っている。昨日も地下鉄「永田町駅」を下車して図書館へと急いだが、たまたま目の前の信号が赤信号だった。待つのも癪なのでそのまま右折して行こうとした。もっとも、そこはいつも警視庁の方が四、五人立っておられて通行人をチェックしておられたのを知っていたし、何週間か前にはテレビカメラが構えられ腕章をはめた記者らしき人が何人もいたので、その界隈が何らか重要な場所で、警備を必要とする場所だとは察知していた。でも、何ゆえそのような警備がなされているのか分からなかったので、それを知りたさに警察官の前を行き過ぎようとしたら、止められて尋問を受けた。「どこへ行くのか」という尋問だった。正直に「国会図書館だ」と答えた。すると、彼はなぜわざわざ遠回りするのか不審に思ったのだろう、私が横断歩行しようとした地点を指し示し、そちらから行けるでしょう、と言われた。私は、逆に、いつもこのあたりに来るが、警備が厳重になされるので何故か教えてくださいと尋ねた。「民主党の会館ですよ」と言われ、見上げてみると、それまで気がつかなかったが、屋上の看板が目についた。たちまち合点した。

 私の道の歩行は認められ、そのまま直進して議事堂前の交差点を左折していつも通り国会図書館にたどり着いた。その日は6週間目にあたるその本の通読の続きだったが、その数時間前吉祥寺で同じ本をあるご婦人の方が貸してくださり、もはや私がのこのこと図書館まで出かける必要はなかったのだが、いつの間にか習いは性となり、自然と足は別の本を探す名目にして国会図書館へと向いてしまっていた。ところが国会図書館に通うレーゾンデータルを失くされたようで私としてはいつものように弾む気持ちもなくなり、内心穏やかでなかったので、前述の冒険心が起きたのだった。

 今度は別の絶版本で手に入れにくい本を探して読みに来ようと思っている。読書好きな人間にとって家の中にワンサと山積みされる書物は場所ばかり取り、迷惑である。私もこれまで何度か本を処分してきた。それでも本はいつの間にか増えてゆく。対策は持たないことである。そこで思い立ったのが図書館利用であった。その点、国会図書館は県立や市立の図書館に比べて当然であるが蔵書数が多いので助かる。それでも求める本がない場合がある。まして私のように信仰書を求めている人間には限界がある。ところで国会図書館カウンター前にある標語「真理はあなたがたを自由にする」(ヨハネ8・32)はイエス様の言葉だ。ギリシヤ語も併置されている。一度記念に写真を撮りたいと頼んだら断られた。だからその全容をお示しできないのが残念だ。

 それにしても都心まで一時間足らずのところに住んでいる者にとってこの図書館の存在はありがたい。その上、どこよりも照明が行き届いていて、読書人にとって採光が十分であることはこの上もない。私の書斎よりもその明るさはやわらかで優しい感じがする。あんなに天井高く蛍光灯があるのに書見台に座るとそこは天国だ。これからも利用して行きたいと思っている。

 ついでながら今まで無関心であった国会議事堂構内も一度は見学したいと思っている。国会議事堂や東京大学構内が道路脇に巷を睥睨している感がするのはこちらの姿勢(敬して遠ざかる)にも問題があるのであろう。まして正規の手続きを踏まずにこれら施設に入ろうとする不心得者の闖入を阻むための造作が必要なことやまたそのために警備する人がおられるのはやむをえないことだ。何ヶ月か前、案内されて慶応大学に行ったことがある。三田の学舎は道路からすっと入って行ったら、そこが学の殿堂であった。福沢諭吉の精神「『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』と言えり」(「学問のすすめ」)が生きていると一瞬早合点したが、考えてみると案内者がいたからこそ、恐らく大学の荘厳な外観も眼中に入らず、中に入れたことに過ぎないのだと思い知った。

 聖書は言う。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(新約聖書 1テモテ2:4)神は、一人一人に仲介者イエス・キリストを通して、はばからずして神の懐に参入できる道を今も用意していてくださるのだ。そしてそれは国会図書館の標語のごとく、私たちが罪・咎の縄目から解放され、まことの自由を享受できる生活である。

(写真は先日長野県御代田地方で見かけた自生せる野生のアマリリス。誰かこの創造のみわざを否定する者がいるだろうか。)

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