2010年6月16日水曜日

政治家の責任


 昨晩の国会議事堂南通用門である。50年前、全学連の学生たちが集まり、この通用門を突破し構内になだれこもうとして一人の女子学生が亡くなった現場である。警備している警察官に尋ねてみたら、午前中には献花が行われた、と言う。国会構内では国会の会期末で新内閣誕生と同時に選挙戦突入になり、議員たちの駆け引きが今も続いていることだろう、と思った。

 それにくらべこの静けさは何なのだろうかと思った。私以外にも、もう少し年嵩のいった方がその辺をたむろしておられた。年恰好からいって樺さんと同世代に見えた。私はと言えば、当時高校三年生、しかも田舎の高校生だった。安保条約の意味を深く考えもせず、当時の新聞論調の支配するまま、民主主義の危機を思わされ義憤を覚えていたに過ぎない。

 たまたま昨日は関西から帰途、東京に立ち寄り、このところ利用させていただいている国会図書館で読書し、そのまま帰るつもりでいた。ところが今日が「6月15日」とあって、いつもは横目で見ているに過ぎない国会議事堂がなぜか気になり、尋ねて見ることにした。ところが国会図書館に面する通用門は北に当たるのだろう、件の南通用門を探すため、結局は議事堂を一回りする羽目に陥った。一巡りしながら、「国会は国権の最高機関」という憲法条文が頭を掠める。それにしてもこのいかめしい建物(人を寄せ付けようとしない)と警備の物々しさは何なのだろうか。余りにも国会議事堂は「私」から遠いのだ。

 樺さんについてはほとんど何も知らないが、ブントに所属していて当時の自治会とのギャップに直面しながらもそこから逃げる事なく誠実に行動しておられた方だと知った。(文芸春秋7月号「安保50年5時間大座談会」の記事による)その座談会は樺さんの同級生お二人と3年先輩でいずれも大学の研究者となられた方をふくむ座談会であったが、「樺さん没後50周年は、同時に安保改定50周年と不可分に結びついているのに、昨今の普天間問題は総理の資質とか5月期限という問題に矮小化されて、安保条約に基づいて基地があるという肝心要の問題が解決されていない」という当然の指摘がなされていた。

 50年とは長い期間のように思うが、やはり一瞬のような思いもする。その50年という時を隔てて、鳩山前首相の不用意な言動もあって、今日では沖縄の一島における全県民を上げての反対運動が展開している。今や50年前にアメリカが日本国内で燎原の火のごとく拡がっていった全学連を中心とする一大安保反対運動を見ていたように、今度は同じ日本人である私たちが沖縄本島を見ている、という構図に変わっている。しかし、50年前も50年後の今日も事態は何も変わっていない。政権は変わり今やあのころまだ中学生や小学生であった人々が政治の中枢にいる。それも庶民出身であると自称する人々だ。彼らが誠実に国の政治に邁進されることを祈るばかりだ。

 座談会には樺さんが高校時代に書いた詩が披露されていた。

 そこには みにくさがある
 アメリカ革命にあったように
 フランス革命にもあったように
 人間のみにくさがある

 そこには悲惨さがある
 それら以上の悲惨さがある

 しかし
 よりひたむきな清純さが
 自由以上の自由を求める心が
 そこにはある
 こんな風に私は思う

 「そこ」とは政治運動をさす。余りにも楽天的な見方であると言われても仕方がない。しかし樺美智子さんは恵まれた家庭で育ち、知的でかつ人々への愛に生きた人だったようだ。この詩は一方でその内側に神様しか保障し得ないきよさを求める思いがあったと読めなくもない。22歳の若さで亡くなったこの人の急を聞き収容先の警察病院へといち早く駆けつけ、最初になきがらに対面した友人が言われるには、「目の周りだけが赤味を帯びていたが、透き通ったような白いきれいな顔だった」という。50年経った今も、死因が圧死であったか扼殺であったかわからない、と言う。

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。柔和なものは幸いです。その人は地を相続するからです。義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。(マタイ5:3~6)

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