2010年6月11日金曜日

I will dwell in the house of the Lord for ever.


 月曜日病床にある友Aさんを訪ねた。友はすっかり痩せてしまった。しかし、その中から彼は私に三つのことを言った。

 まず彼の言ったことは「自分の人生の三分の二は良かった。しかし悪いことをたくさんしてきた。」であった。私は「君の過去の罪は、全部イエス様が十字架で代わりとなって罰を受けられた。だから、神様に赦され清算されているから、今や大丈夫だよ、安心してね。」といつも彼に言っていることを繰り返した。うなづいていた。

 次に「きよくなりたいな」であった。「いいよ、いいよ。こんなみじめな私を、主よ、導いてください。と祈ってればいいんだよ。僕たちは神様の前に裸になって祈ることができるんだよ。心が貧しくあれば、神様は必ずきよくしてくださ るよ」というようなことを言った。

 最後に「子どもに何を残して行けばいいのかな?」と彼。私「信仰の遺産だよ」彼(幾分とぼけて)「遺産なんて、少しも金を残していないぞ!」私「ちがうよ、信仰の遺産だよ。最後 まで主イエス様に頼ってればいいんだよ。きっとイエス様は働いてくださり、神様のご栄光があらわされるよ。それだけで十分だよ。」彼「ウン、イエス様に頼り続けるよ」と自分にも言い聞かせるかのように言った。

 そして終わりに詩篇23篇を私が朗読した。朗読し終わったら、もう一回読んでくれと言う。静かに聴いていたが、いたずらっぽく、最後の聖句について「主の家にいつまでも住まいましょう(I will dwell in the house of the Lord for ever.)、とあったけれど、主の家(天国)ではパソコンやるんかな」と言う。「さあ、どうかな。想像できないが、パソコンどころでないんじゃない」と答えた。そう言えば、お見舞いして開口一番言われたのは「いよいよ僕も天国へ行くけれども、淋しいから君もついて来てくれない?」だった。

 何回お見舞いしたかは記録もしていないし、数えてもいないのでわからないが足繁く通うことは通った。いつものように二人でお祈りを終え、辞して最寄の駅まで歩いて行った。数分して奥様が自転車で追いついて来られ、ご主人の容態が悪いので今後は入院することになります、と言われた。長い間、許されて主にあるお交わりをいただいてきたが、いよいよ今日が最後であったことを自覚した。一瞬淋しい思いにさせられたが、彼とは十分聖書を通じて友情を保ち得たことを主に感謝した。

 翌日、『アブラハム・イサク・ヤコブの神』(ウオッチマン・ニー著)を読んでいたら、信仰の父アブラハムが女奴隷ハガルを通して子どもを設けたことの失敗について次のようなことが書いてあった。

 もしわたしたちがキリストを得て嗣業を受け継ぎ、神のために地上に立つためには、自己を持ち込んではならないのです。わたしたちは自分で動いてはなりません。自分で勝手に行ってはなりません。また自分で何をはじめてもいけません。必ず自分というものはかたわらに置かなければならないのです。これは最大のテストであり、最もむずかしいためしです。また神のしもべたちの最も容易に失敗する点でもあります。わたしたちは必ず覚えるべきです。それは神の働きの上では、単に罪を犯してはならないというだけでなく、自分がよいと思っても行ってはいけないということです。
 神の問題は、どうすればよいかということだけでなく、だれがすべきであるか、ということにあるのです。残念なことに、わたしたちが罪を犯してはならないということを人に勧めるのはやさしいのですが、自分勝手に行ってはならないと勧めるのはそれほどやさしいことではありません。願わくは神に導かれて、主に次のように申し上げることができますように
 「主よ。わたしはあなたの御旨に従います。あなたご自身がわたしのうちにあってあなたの御旨を行わせるのであって、わたし自身で御旨に従うのではありません。あなたであって、わたしではありません」
                            (同書94~95頁より引用)

 突然重病人を抱えられたご家族の心痛は大変なものがある。そのことも十分わかり、祈って出かけたつもりだったが、上記の文章を通して、果たして自分は主の思いより自分の気持ちを先行させていなかったか、特にご家族への配慮が十分であったか、大いに主イエス様から問われ悔い改めさせられた。しかし、お願いして何人かの方にお見舞いに行っていただいたがそれも許されたし、何よりも主にある多くの方々が今も祈り続けてきてくださっている。Aさんに対する主の思いはきっと私たちの思いをはるかに越えていることだろう。そのことが今新たな励ましになっている。

わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(旧約聖書 イザヤ55:8~9)

(一週間ほど前、目を楽しませてくれたニッコウキスゲが、昨日の朝は、三つも同時に花を咲かせていた。今朝はもうその花弁もそれぞれ閉じられようとしている。まもなくこの鮮やかな黄色も庭から姿を消すのか。来週から梅雨だと言う。主役は「隅田の花火」を始めとするアジサイへと移行しつつある。「友の言 忘れまじ三つ 花語り」)

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