2010年11月7日日曜日

神の働きは権威の中の組み合わせである

(熱い夏の始まる頃、庭に咲いていた花、家人は名前を知らぬと言う。創造主にそっとお聞きしたい。)
さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、が彼らに命じなかった異なった火をの前にささげた。すると、の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らはの前で死んだ。(旧約聖書 レビ記10:1~2)

ナダブとアビフはアロンから離れて働いた時、神から離れて働いていました。なぜなら、神の働きは、権威の中の組み合わせだからです。神は、彼らがアロンの権威の下で奉仕するように定めました。新約にはバルナバとパウロ、パウロとテモテ、またペテロとマルコがあります。これらすべてにおいて、わたしたちは一方では指導する責任者を見ますし、他方では従っている助け手を見ます。神の働きでは、ある者たちは立てられて権威となっており、他方では、他の人たちは立てられて権威に服します。神はわたしたちが、メルキゼデクの位による祭司であることを願われます。同じように、わたしたちは権威の中の組み合わせの秩序の下で、神に仕えなければなりません。

指導すべきでない人が指導し始めると、反逆と死があります。ですから、権威に触れることなしに神に奉仕する者は、異火をささげています。「だれそれにそのことができるのであれば、わたしも同じことができる」と言うのは反逆です。神が注意を払われるのは、火があるかどうかだけではなく、その火の性質にも注意を払われます。反逆は火の性質を変えることができるのです。アロンから指図されていないものはすべて、つまり神から指図されていないものはすべて異火です。

神の関心事は、単にいけにえではなく、権威を保持することにあります。こういうわけで、人は追随者であるべきです。人は常にただ補助者であるべきです。代理権威は神に従います。権威に服する者たちは、代理権威たちに従います。霊的な事柄または霊的な働きでは、それは各自の個人的な奉仕ではなく、実は奉仕において組み合わされる団体的なからだです。奉仕の単位は組み合わせであって、個人個人ではありません。

ナダブとアビフがアロンに対して問題を持った時、神に対して問題を持ちました。彼らはアロンを離れて働くことができませんでした。権威を踏みにじる者はだれでも、神の火によって滅ぼされるでしょう。アロン自身でさえ問題がそんなに重大なものとは知りませんでした。

しかしモーセは、神の権威に対する反逆の重大さを知っていました。神に奉仕していると思っている人が多くいます。しかも彼らはいかなる権威の下にも来ないで、独立的に働きます。多くの人は、神の権威に反逆しているとは知らずに罪を犯してきました。こういうわけで、過去、中国において普及していた野武士的福音伝道者たちは教会にとって大損失でした。

(『権威と服従』ウオッチマン・ニー著34~35頁から引用)

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