2010年11月18日木曜日

「交わり」の醍醐味

(滋賀大学経済学部陵水会館:ヴォーリズ設計1938年)
アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」(創世記4:25)

旧約聖書をはじめて読んだとき、何度も出て来る、この単純な「知った」ということばに震撼させられる思いを抱いた。人が人を知ることはむつかしい。人が互いを理解することはむつかしい。しかし、もし人がともに主イエスを見上げることができれば、私たちはよりふさわしい一致が与えられることを体験的に知るようになった。

ワーキングキャンプで体験したもう一つ二つの出会いについて記しておきたい。土曜日の午後、4人の方の納骨記念会があったことは以前記したとおりである。それぞれの遺族の方の証はほとんどの方が召された方が今は天国におられ、私たちもいずれは再会できるから感謝だという証であった。しかし最後に証された方は信仰をお持ちでない方のようだった。40数年前に亡くなった父君の納骨であった。父は無神論者で散骨を望んでいたが、こうして妻に勧められるまま遺骨を携え来た。天国へ行っているという他の方々に混じって、父のような異端児も加えられても、いいのじゃないでしょうか、というご挨拶であった。型破りと言えば型破りだが、ご本人の偽らざる正直な感想だと思いながらお聞きしていた。

しかし、そう言われて黙っておれなかったのだろう。お嫁さんに当たる奥様が思わず登壇された感じであった。私はしゃしゃり出るつもりは毛頭ないのですが、主人が申し上げましたように義父は無神論者であったのかも知れません。しかし、医者として多くの人に仕え、へりくだっていた人のように聞いています。心の打ち砕かれた人を主イエス様は受け入れてくださっていますので義父は間違いなく天国に行っていると思います、とつけくわえられた。

その時、私はひとりの方と隣り合わせになり、後方座席に場所を占めていた。その方は私よりも10歳程度上の男性であった。奥様はまだ信仰を持っておられない。だからいつも一人でこのようなキャンプに参加される。奥様も同じようにイエス様を受け入れて欲しいと願っておられる。自然で自由でフランクなこの納骨記念会に出てお互いに心が洗われた思いに浸りながら、会は解散したにもかかわらず私たち二人は、そのままそこに座って、さらにおよそ一時間程度お互いに交わった。

実は、金曜日に私が話し終え、その内容のまずさに自己を責めている時、この方がもう一人の方と一緒に来られて、「兄弟、今日のメッセージで今まで疑問としていたことが氷解されました」と喜んで来てくださったのだ。私はその時余りふさわしくない言葉だか、「捨てる神あれば、拾う神もあるのだ」と思った。でもその方が言われる意味が今ひとつぴんと来ていなかった。

早速、その席で互いに語らず問わずともその話の続きになった。私の拙い聖書のメッセージがどのようにその方に益になったか、くわしくお聞きすることができた。その方は持参なさった大きな聖書にボールペンで私がお示しする聖書箇所を少年のように線を引いたり書き込まれたりする。その方は様々なことが前よりはわかったとおっしゃる。ところが私もその方と五十歩百歩であることがよくわかる。その方は言われた。「兄弟、私は今までこの『交わり』ということが苦手であり、そんなに重要だとは思わなかった、しかし、このごろキャンプでこうして交わることが嬉しくなって来たのですよ。交わらないと損ですね」全く同感だった。『交わり』を通してどんぐりの背比べのような互いが、聖書を通してより深くイエス様を知ることができると思い至ったからである。

そしてこの方と知り合いになったのはまだ一ヶ月足らずであるが、前よりはその方を知り愛するように変えられていることを体験した。おそらくその方も同じ思いだっただろう。一方、私は今回のキャンプにやはり一月ほど前から主を求めて出て来られた一人の方をキャンプにお誘いしており、その方も参加されていた。この方とは私はすでに十分交わっている。だからキャンプでは他の方々に極力交わっていただきたいと思っていた。わずか一日であったがその方も必要な方と次々交わりが与えられ、問題の渦中にあるその方が帰る頃には明らかに顔が明るくなっているのを遠くから拝見できた。

そして日曜日のキャンプ解散直前の昼食の席で、また新たな一人の方のご紹介を受けた。43歳の男性だった。明るく素直な方で出席する教会に今、牧師さんがいないのでネットで家庭集会のことを知り、出席し、さらに勧められるまま初めてこのキャンプに参加したということであった。7人テーブルに加えられたその方と一緒に私たちは和気藹々と食事をしながら話に興じた。見ること聞くことすべて初体験であるその方にとってもさぞ驚きであったことと思う。

振り返り、「みことば」と「交わり」と「祈り」があるキャンプを通して、私たちは互いが互いを相知り、さらに成長するのだと思い知らされた。批判的な人々はこのような集まりを指して「ベック教」だとおっしゃる。今回、ベックさんは東京に入院中であった。そのような方は恐らく集会の主が生けるまことの神様であることをご存じないし、まだ主イエス様のみわざである「救い」を体験しておられないのだろう。

私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。(1ヨハネ1:3)

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