2010年11月9日火曜日

二通の手紙のぬくもり

外から帰ってきたら二通の手紙が届いていた。一通は家内宛、もう一通は娘宛である。私宛のものではない。けれども中味は私にも宛てられたのも同然の内容であった。

家内宛のものはこの日曜日、日立でともに礼拝を持たせていただいた時に、懇意にしているご婦人から藤枝の葬儀に行って来た話を紹介されたことによるものだった。そしてその折、息子さんをなくされたお父さんの挨拶状を見せていただいた。一読、さわやかな香りあふれる文章だと思った。家に帰ってから、その方に、家内にも是非読ませたいから、ファックスで送って欲しいと電話で依頼した。ところが、ファックスでなくコピーして送りますとのご返事だった。私としてはすぐにでも見せたい思いでいたのに、なぜ郵便なのか解せなかった。

これは日曜日のことであったが、今日の火曜日に早速、速達でお父さんの挨拶状を二部コピーして送ってくださったのであった。ファックスでなく速達で送ると言われたそのご婦人の心がこの時初めてわかった。一枚のファックスでは味わい得ない、その方の筆さばき、文面から奥ゆかしさが伝わってきたからである。その短い手紙の末尾には次のように記されていた。

○○兄の平安な美しいお顔と又ご両親の悲しみの中にあっても主の支えの中におられるご様子を拝し帰って参りました。

この方は土曜日に茨城県の日立から静岡県の藤枝へとご夫妻で出かけられ、翌日会った私に葬儀の喜びを伝えてくださったのであった。お父さんの文章は全文引用したいが一部のみにさせていただく。

我家の、朝晩のお祈りの時の、毎日の○○の短いお祈りを紹介させていただきます。”神様。どうぞ家族、親せき、友人、知人をお守りください。自分が今日、罪を犯すことのない様お守りください。”でした。
主イエス様の救いは、全ての人にすでに用意されております。それは無料です。ただです。
どうぞここにご参列くださっている皆様も、これを御自分のものとして下さい。
天から降る雨は、どんな人にも同じように降りそそいでおります。この恵みの雨、救いの雨だけは、傘をさしてさけないでいただきたいのです。
息子○○が、皆様にたった一つお返しできたことは、人生の最後の自分の召天をとおして、救い主イエス様を御紹介できることだけでした。
今回、皆様からいただいたお悔やみの言葉と、涙してくださったことを心から感謝申し上げます。
そして今一つ、それと同じように嬉しかった言葉があります。それは東京のある信仰者に、○○が召されたことを連絡した時に、
”おめでとう。よかったね。”といわれた言葉でした。それも涙声をもってでした。その瞬間、私の中にあつい物がこみあげるのを禁じえませんでした。
これは、イエス様の救いを信じている者同志だけがかわす挨拶であります。
その意味は、○○が、イエス様の十字架の犠牲が、自分のためであったと信じているので、天国のイエス様の所に召されたたこと、永遠のみ国に入ったことを信じるが故の言葉でした。

最愛の息子さんを天に先に送られたお父さんのご挨拶が改めて胸を打つ。

あともう一通が娘に送られてきたもので、そこには娘の採用試験合格を知って我が事のように喜んでくださるご夫妻の姿が文面にあふれていた。そして今秋の二紀展出品の作品が添えてあったのだ。私は嬉しくなり、早速今日のブログに載せたいので許可を得るために御礼を兼ねてお電話をした。

私は、文面を通して、ご主人の制作を我が事としてともに苦しむ奥様の姿に打たれていたので、そのことを申し上げた。作品誕生に至るまでのご苦労を改めてじかにお聞きすることができた。制作中足を捻挫され、230cm×180cmの作品を立てかけて脚立であろうか、上り下りするのが大変であり、力の限界を覚えるなかで完成を目指されたということであった。その上、今年は例年になく猛暑が長期間続いた。制作中の湿度の調整には並々ならぬ努力を払われたそうだ。作品は決して最良の出来映えではない。まだ二工程ほど描き込みが不足している、とはご主人と一体になって制作を助けられた奥様ならではの言だった。そして作品は見る人が自由に見ていただきたい、と言われる。

ただ、主人はいつも文字こそ書かないが、この作品の背後に主イエス様の再臨を待ち焦がれる気持ちがあるんですよ、それがラッパです。その時こそ主を信じるもの全ての誕生日じゃないでしょうかとつけ足された。

人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると、御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。(新約聖書マタイ24:31)


聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。(新約聖書 1コリント15:51~52)

( 「誕生 寿(ことほ)ぐイエス 二文面 顕(あら)わにしたり 届け巴里まで」 )

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