2012年4月14日土曜日

生命を賭して

今日は生憎雨だったが、昨日は穏やかだった。線路際の今年のすみれ。
(この)チンデルの英訳聖書は実に立派な訳で、欽定訳聖書は凡てこのチンデル訳を基礎としてなされたのである。この二つの聖書を一頁でも比較してみると、いかに欽定訳聖書が、チンデル訳に負うところが多いのかがわかるのであるが、今ここでそれの出来ないのは残念である。所々言葉が変わっているくらいでほとんど同じところもある。そしてこのチンデル訳の特長は、出来るだけ単純なわかりやすい言葉をもって訳して、しかもその意味を適切に現わしているところにある。これ彼が聖書を平民の書として、牧師の専有より取り返さんとの祈りのあらわれである。元来聖書の原文は、平民のためにわかりよく書かれたものであるが、それをカトリックの牧師たちが貴族語のラテン語に祭り込んでしまったのである。またさきにも述べたごとくクォート版の方には序文と脚注がついていて、この註解をタンスル等は「有害な註解」と言ったそうであるが、その価値は今日誰でも認めるところである。またその序文には彼の信仰の正しさがあらわれている。今その数節を引用する。

我らが、神の律法が正しく説かれて、いかに心の底より、精神を尽し、力を尽して、神 を愛さねばならないか、また隣人を(しかり敵までも)愛さねばならないか、また神の命令はいかなることでもなし、禁じられたことはいかなることをもなしてはならないのを知るとき、我らの良心はむしろ神とその律法に対して怒りを抱くものである。生まれながらの人間は、律法が善でありまたそれを与え給うた神が義であることを、認めることはできない。人間の慧い理性も、意志も、堅く悪魔に捉えられている。キリストの血潮以外いかなるものも、この束縛より解き放つことはできない。

 チンデルは人間の罪がいかに根本的であるかをよく知っていた。隣人を愛し、神を信ずる力さえもなくなっている本当の人間の状態を、彼はよく知っていた。儀式や伝統や形式の宗教で満足し得る人は、真の深い罪の自覚がないからである。この深い罪を知るものは、ただ基督の十字架以外、それより解き放つもののないことを知るはずである。

憫れむべき良心が、基督のいたましい死がいかに有難いか、また彼の贖いといさおしを通して、いかに神の愛と憐れみが溢れているかを知る時、我らは再び愛することが出来るし、また神の律法が善であり、それを与え給うた神が義であることを認め、病人が健康を願うごとく、神の律法が満たされることを願うようになる。

 なんと深い言葉であろうか。人を愛することも、神を信ずることも出来ないまでに堕落したこの人間が、基督の十字架の愛の迫りに目を開かれて、はじめて他を愛することも出来るし、神を信ずることも出来るというのである。しかもそれのみでなく、自らの救いの問題を越えて神の律法の満たされることを、本質的自然的要求として願うようになるというのである。

 また彼がこの聖書を訳すのに、いかに謙虚な心をもって、誤りなく真実の福音を伝えんとしたかがこの序文にあらわれている。

基督にあって最も愛する兄弟姉妹のために、その信仰を起こし、慰め励まそうとしてこの新約聖書を訳した。もしも私より以上に語学に通じ、私よりもより深く聖書の意義、聖霊の意味を解する、より高い賜物を与えられている人があれば、私はその人にこの訳書を平和な霊をもって考え調べることを奨め、また願う者である。そしてもし彼らが、私の言葉の不適当な点、英語の不正確な点などがあるのを発見すれば、それを改めるのが彼らの義務であると考えるべきである。なぜなら、神の賜物は我らのみが受けて彼らには隠されているのでなく、神と基督の栄光のために、また基督のからだなる集会の信仰を増すために、彼らにも与えられているからである。

 かくチンデルは、誰かより以上の賜物を与えれている人にその改訳を願うとともに、彼自らも絶えず努力した。彼は死刑に処せられる時まで、この改訳の筆を棄てなかったのである。実にこの努力は聖霊の導きと、生命を棄てても母国民によりよく福音を伝えんとする押さえ切れない愛とがなかったならば、到底出来ないことである。最後に有名な聖書註解者ウェストコットが、このチンデル訳の聖書についていっている言葉を引用して、この章を終ることとする。

聖書翻訳において、彼が学者であったと同時に徹底せる信仰の人であったことがわかる。始めより終りまで、その文体において、解釈において、彼独特なものがある。チンデルの独創性は今日我らの聖書の独創性として多く遺っている。されど彼の精神が聖書全体を力づけている影響は、その言葉がそのまま遺っている以上永久的なものである。彼は信仰に溢れて努力した。彼の足らざるところに対しては、その成功の秘訣を後継者にのこしている。彼の功績の決定的なものは聖書を一般化したというところにある。学問的用語でなく、簡単な普通語において語っている。この功績は永遠に認められるべきである。

(『藤本正高著作集第三巻』〈ウイリヤム・チンデル伝—新約聖書を翻訳す〉458頁〜462頁から引用。All scripture is given by inspiration of God, and is profitable for doctrine, for reproof, for correction, for instruction in righteousness: That the man of God may be perfect, throughly furnished unto all good works. この聖句もチンデルによる英訳なのだろうか。チンデル訳聖書をお持ちの方に教えていただきたいところである。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」新約聖書 2テモテ3:16

1 件のコメント:

  1. チンダル訳は For all scripture given by inspiracion of god, is proffitable to teache, to improve, to amendende and to instruct in rightewesnes, that the man of god maye be perfect and prepared vnto all good workes です

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