2012年4月27日金曜日

日本軍の占領と散らされた人々の生き様

 1943年の当初の数ヶ月間までに日本は捕虜収容所、文民集会所(Civil Assembly Centers)を用意し、外国人は一団となってそこに連行された。ウオッチマンは友人たちのために出来る限りのことをした。これから先の厳しい日々に価値があると思われる物品を丹念に捜した。特に病院に入院しており、実際に病状がひどいので家族と一緒に収容所には入れないスターン博士を気遣った。

 3月16日、エリザベス・フィッシュバッハとフィリス・デックが上海の南、Lunghuaの収容所に入ることになっている前の夜、ニー夫妻は彼らを自分たちのたった一つしかないストーブと赤と黒のカーテンをかけた小さな家に招待した。粗末な食卓を囲んで、彼らは神に祈り、一緒に神の真実さをほめたたえた。それから婦人たちはベッドフォード・テラス17番のアパートへ夜遅く戻った。その時、フィリス・デックは鍵を家の中に置いたままであることに気づき、時々しているように裏口の窓のところに行こうとして、小屋によじのぼった。ところがそうしている間に脳卒中を起こし、彼女は落ちて死んでしまった。彼女は同労者であり宣教師のもっとも信仰に富んだ穏やかな人の一人であったがこのようにして死んだ、ただ微笑んでいたと言われている。

 ウオッチマンは C.B.Cのために中国名「シェング・フア 薬品製造会社」と命名し、販売戦術として薬の効能を表現するのに巧みな対句を正式に表した。マーキュロクロムのような基本的に抗菌性のあるものを製造する以外に、スルファチアゾール、スルファグニジン、ビタミンBの濃縮物、そしてヤトレンを製造し始めた。もちろんそこには彼が先を見通していない問題があった。そのプロジェクトはすぐに彼の時間に食い込み始めた。一般にビジネスにあっては人は自分自身の主人たり得ないのが普通なのだ。新薬品を最初に送り出すために追いつこうとそれぞれが競い合っている他の大手の会社との激烈な競争や商業上の気配りがあった。

 株主からの不満もあり、ビタミンBの投入をめぐって神経過敏からなされ報告された案件もあった。それに加えて家族企業としての面倒さもあった。新製品の最初のものを卸す段取りになるといつでも彼が疑惑のもとに置かれた。彼の組織能力やまとめあげる能力は今や戦争状態が悪化する中、どんな時でも微妙な舵取りはどうあればよいかを処理するのに役立った。その結果ウオッチマンは絶えず上海には不在がちになった。

 働き人への送金流入のために弟のジョージと手配してから、彼はもっと長期にわたる(上海)不在を計画した。日本軍は蒋介石の拠点に対して西側を攻撃したが、中国民間人が飛行機を使って自らルートを選んで戦争の最前線を横断することは可能だった。彼は重慶に向けて出発した。その地の報告がすでに上海に届いていて、まだ自由な地帯において人々が霊的に目ざめているということだった。そこにはもっともすぐれた避難してきた大学生たちや土地の投機を手がけるに敏な商売上手な人や銀行家がはるか西に20世紀を素早く持ち込んでいた。ウオッチマンの計画には日本軍に薬を売り込む手はずはなかったので、それに置き換わる需要が最大である地域に売りさばく販路を探し始めていた。 こうして彼はすぐに政府との協約を取りつけて成功をおさめた。その協約によりC.B.Cは徐々に、もっとも小さい企業の一つから中国の薬剤輸入および製造卸の最先端の位置にまで成長した。

 彼は二年半上海と重慶との間を絶えず行き来して過ごし、重慶に小さな住まいを借りた。チャリティーは彼と一緒だったし、彼女の年若い弟もSzechwan(四川?)で営業上の利益を得た。重慶の信者の集会は追われたクリスチャンが入って来て増えており、ステフェン・カウングの宣教のもと成長していた。彼は妻のメリーとともに日本軍のシンガポールの占領にともなってインドを経由して脱出して来ていたのだった。ウオッチマンはクリスチャンの難民の何人かを製薬会社に雇い援助することに全力を尽くした。時々彼はみことばを元気にあふれて明快に語った。1945年には一連の「アジアにおける7つの教会」の話をした。これらは神の宣教戦略における地方教会の特別な地位に関する彼自身の見解を補強する方法で(引用者註:黙示録)以後の教会歴史の場面と一致するものと考えた。

(『Against the tide』by Angus Kinnear 14章 WITHDRAWAL p.173~175より。)

使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。 散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。(新約聖書 使徒8:1、4)

0 件のコメント:

コメントを投稿