2012年4月25日水曜日

「虚栄心の強さ」(亡母の誕生日にちなんで)

 私の母は1917年(大正6年)4月23日に生まれ、1961年(昭和36年)5月22日に亡くなった。5月22日は、東京スカイツリーの開業日だと某会社はその宣伝に躍起になっている。しかし私にとってはこの日は母が亡くなった日として、忘れることのない日である。ところが、母の生まれた日も忘れることがない。しかも何時のころか、この母の誕生と、シェークスピアの亡くなった日が同じであることを知り、二つを結びつけ、母はシェークスピアの生まれ変わりだと奇想天外なことをまじめに考えた時があった。先頃もその話を紹介したところ、「お母さんは文才があったの?」と聞かれた。確かにそう言われてみると、小説を書いたわけではない。字は大変上手であったし、日記など残してくれている。ただそれだけである。いわゆるマザーコンプレックスというもののなせるわざかもしれない。

 しかし、この母が私に言った言葉は今も絶えず念頭にある。「おまえは虚栄心の強い子だ」これほど私の心を心胆寒からしめることばはない。すべて思い当たるからである。多分、母は私が絵が描けなくなったことを揶揄して言ったのだと思う。小学生の低学年、絵を無心に描いた。絵の指導教官に恵まれたのであろう。その作品は県や国内の絵画展で評価され賞をたくさん受けた。ところが、ある時からサッパリと絵が描けなくなったのである。母は焦った。何とかしたいとわざわざ遠くまで電車に乗り、絵の先生につかせた。それでも絵はものにならなかった。うちに残ったのは自我のどうしようもない葛藤・苦しみだけであった。小学校卒業のおり、教頭先生から「あなたは大きくなったら絵描きさんになりますか、それとも科学者になりますか」と過分の励ましのおことばを頂戴した。絵と同時に、様々な科学研究発表をして評価されていたからである。(けれども、これももとを正せば、母の全面的なお膳立てで私は母の示すがまま「柿の種」の研究など、研究まがいのことをしていたにすぎないのだが・・・)

 もう一方で私の家は友達もうらやむ家であった。 1940年(昭和15年)に建てられた家であった。国策では認められない普請であったが、子孫を絶やさないために養子を家に迎え入れたい、そのために建設するんだという母と祖父のお上への嘆願書が功を奏したのか、許可が下りたようだ。当時は全然意識しなかったが、それこそ檜の香も薫り、床はピカピカ、和室の襖はそれぞれ奥ゆかしくあつらえられ、すべての調度がそうであった。その家をひとり息子の私は縦横無尽に背の届く範囲で引っ掻いた。玄関の壁は無惨にも友達と壁をひっかいた痕が今も残っている。母はどんな気持ちであったかと思うと、申しわけない。今、見ても昭和建築の妙が生かされ、ロマンを感じさえする。ところが問題は内実である。

 戦後、農地解放をはじめとする様々な激変のうちに家は困窮を極めた。その上、大黒柱である父が肺病で倒れ、京大病院に入院せざるを得なくなった。そのころ、聞きつけた友人がたまたまパン屋であり、その家のお母さんがパンをたくさん持って玄関にかけつけて下さった。嬉しかったが、そこまで我が家はすでに駄目になっているのだと子供心に改めて思わされた。神社からは家が立派であると言うので町の祭典費はどの家よりも高く割り当てられていた。その時は母は悔しがった。外面と内実が異なっていたからである。そういうおりに私に発した言葉があの「虚栄心」と言うことばであった。考えてみると、あれは私への言葉だけでなく、母の自戒の言葉でなかったかとこの歳になって思う。以来、このことばは私の人生観の根底にある戒めの言葉となっている。ところが昨日のウオッチマン・ニーの話を読むと、彼は主イエス様ご自身から来る生き方、それは「一切、自己弁解をしない」という生き方を身につけているということであった。それもマーガレット・バーバーという一人の姉妹から教えられことだと書いてあった。

 聖書は男性が主の前に責任を負っていることを強調している。けれども女性のこのような素晴らしさを見過ごしているわけではない。母を思う時、女性として懸命に自分に関わってくれたことを改めて感謝したい。また、ウオッチマン・ニーの素晴らしい生き方もたくさんの姉妹の祈りがあったことをしみじみ思わされる。

いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。私たち抜きで、王さまになっています。(新約聖書 1コリント 4:7〜8)

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