2013年11月1日金曜日

永遠のいのち(中)

第二番目の理由として、今話したように「永遠のいのち」は主イエス様がこの新しいいのちを与えるために、この世に来なければならなかったのです。イエス様の証とは次のようなものでした。ヨハネ伝10章の10節

わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

「永遠のいのち」を与えるために、イエス様は天から来られました。イエス様は人間が「永遠のいのち」を持つために、死ぬことのないために、すべての人間のために犠牲になり、代わりに死なれたのです。もしイエス様が来られなかったらどうでしょう。恐ろしい死を来たらす死を取り去って下さらなかったら、どうでしょう。「永遠のいのち」を罪人に下さらなかったら、すべての人間は「死」と名づけられる恐ろしい状態に永遠に留まらなければならなかったでしょう。

人間の種類は、ただ二つでしょう。人間は魂と体が生きていますから、生きているように見えます。けど、主なる神が人間を眺めた場合、人間をただ二つの種類、すなわち生きている者と死んでいる者と二つに分けています。私たちはこの瞬間にこの二つの種類のうちのどちらかに属しています。主なる神から見れば、私たちは生きているか死んでいるかのどちらかです。私たちはたとえば道を歩いている人を見て、この人は確かに生きているともちろん誰でも思います。私たちはそれを見て、その人の体が生きていることを考えるだけなのです。その人は肉体的ないのちを持っていますけど、その人の精神は死んでいるかも知れない。もし死んでいるなら、また生まれ変わっていなければ、主なる神の目から見るとその人は死んでいると(言っていいんです)。

また、ある事務所で熱心に働いている商人を見てみましょう。私たちはこの人は確かに生きていると言います。けど、私たちはただその人の魂のいのちが働いていることだけを考えています。すなわちその商人は考えること、感ずること、欲することができます。だから生きているとわれわれは判断します。けども、主なる神の判断は全く違います。主なる神に出会っていない人間、主との交わりを持たない人間は死んでいると主は言われます。われわれは限りあるいのちについて話しますが、主なる神は「永遠のいのち」について話されます。

また、今度イエス様を信じていて死んだ人の葬式に参加します。そしてその人の屍(しかばね)を見ます。その時、私たちはこの人は死んでいると思うかも知れない。私たちはその人の肉体の死を考えているから(です)。その人はもはや考えることもできないし、動くこともできません。けど、主なる神は「その人は生きている」と言っています。だから聖書の中で、「死んでも生きる」ということばとは本当にすばらしいことばです。主なる神の言われることがもちろん今わかります。なくなった信者の精神は生きているのです。「永遠のいのち」を受け、生まれ変わっていたのです。ですから、たとえ肉体は死んだとしても実際は生きている。なぜなら、その人は罪や死によって犯されることのないいのちを持っていたのです。そのいのちこそイエス様にあるいのちなのです。

こないだ一人の兄弟が召されまして、まだ比較的に若かったのです、70歳。高知のT・M兄弟なのですけど、その五、六週間前にやっぱり葬儀のために高知に行ったことがあります。けど葬儀のために頼まれたから行ったのですけど、私の気持ちは葬儀のためにだけに別に(行かなくってもいいのじゃないか、でも)。このM男、もう一回会いたいと思ったのです。末期のがんのために痛くって痛くってしようがなかった。会ったのは良かった。なぜなら全部主の御手から受け取ったからです。私はどうしてそんなに痛みを経験しなくちゃいけないのと一言葉も言わなかった。イエス様は全部知っている。イエス様は最善のことしか与えられない。ですから、彼の葬儀もほんとうに、葬儀よりもひとつの喜びの集いでした。遺された奥様、R子姉妹の証もほんとうに良かった。葬儀に出たいろいろな人々はやっぱり変わったようです。ほんとうに真剣になったのです。こういうふうに死ぬことができなければ、人生は無駄じゃないかと思うようになりました。

「永遠のいのち」を持つことこそがたいせつです。どうしてでしょうか。三番目の答えは「永遠のいのち」は人間の永遠の運命を決定するから、聖書の中のもっともたいせつな真理です。聖書の中でもっともたいせつな、たいせつと言うよりももっとも一番知られている箇所は、皆さんご存知です。ヨハネ伝3章 16節。15節から読みましょう。

それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 

と。「永遠のいのち」を持っている者は決して滅びません。反対に言えば、「永遠のいのち」を持っていなければ人間は滅びなければならないのです。けども、滅びるということはいったい何を意味しているのでしょうか。私はそれを知りません。けども、滅びるとはいのちの反対であり、またそれは非常に恐ろしいことだということだけは知っています。主なる神は永遠のいのちをいらないと言う人間のさばきを表わすために、このことばを使われたのです。ヨハネ伝3章36節

御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

と、あります。一方にはいのち、他方には神の怒りがあるのです。主なる神の怒りとはいったい何でしょうか。私は知らないけど、ここに書いてあります。また私たちはこのことばを嘘だということができません。もし、私たちが「永遠のいのち」を受けたくなければ、主なる神の怒りを受けるのです。もう一ヵ所読みます。今度は同じくヨハネ伝の5章、5章の24節

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

このみことばは二つの面、二つの道、すなわち「いのち」と「滅亡」をみることができるのです。私たちが「永遠のいのち」を受け取りますと死に打ち勝ったことになります。死とは何でしょう。滅亡とは何でしょう。主なる神がそれをご存知です。私たちはそれを知ろうとは思いません。自分が「永遠のいのち」に向かって進んでいるのだということがわかればそれで十分です。「永遠のいのち」を持っていないことは、死、滅亡を意味しているのです。もう一ヵ所読みます。今度10章ですね。ヨハネ伝10章の28節。

わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

イエス様はこういうふうに約束してくださいました。すなわちいのちの贈り物を拒めば大変です。滅亡するだけです。人間はどちら(か)に決めなければならない。自分の将来を決めます。人間は自分の運命を決定する権利を主から与えられています。ですから、いつ死んでも「永遠のいのち」を持っている、行き先は決まっている、と確信できる人は幸せです。この確信がなければほんとうの意味で前向きに生活することができません。

(この日、私は昨日お話した未亡人の方に依頼されてご主人の召される二日前の様子を記録し、みことばを添えた小冊子を集会の始まる前15部ばかり作成した。そしてそのあとこのメッセージをいただいたのである。何とタイムリーな学びであったことであろうか。ここには死といのちの違いが聖書を通じて存分に語られているからである。 )

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