2013年11月2日土曜日

永遠のいのち(下)

あるインドで働いた宣教師の夢を紹介します。この女宣教師は次のように見た夢について書かれました。

青草の生えている牧場に座っていました。足もとには果てしのない深い広い穴が大きく口を開けていました。私は下を見下ろしましたが、その穴の底は見ることができなかったのです。そこには雲のような黒いものが、また荒れ狂う竜巻のようなものだけが見えたのです。また死んだ人を包んだ布に似たよう大きなうつろ、測り知れない深い穴が見えました。私はこの穴を見たとき目がくらんで、うしろに思わず飛び退きました。長い列をつくって青草の上をあちらこちらを歩いている人々がいました。その人たちはみんなその穴に向かって歩いて行きました。そこに小さな子供を腕に抱いてもう一人の子供を連れていた母を見ました。その三人は穴の淵に向かって近づいているではありませんか。私はその母がめくらだということがわかりました。母親はまた一歩前に進もうとしましたが、足は穴のところを踏んだのです。子供たちと一緒に落ち込んでしまいました。落ちる時の叫び声は何という声だったでしょう。いろいろなところからたくさんの人々がやって来ました。みんなめくらでした。完全に目くらでした。みなが穴に向かって歩いて行きました。彼らは突然落ち込んで、恐ろしい叫び声をあげました。また他の者は黙ったまま深みに足を踏み入れ声もなく落ち込んで行きました。

ここまで述べましたのが、その宣教師の夢なんです。前に言いましたように主なる神の目から見た人間は二つの種類に分けられます。それは精神的に死んでいる者と精神的に生きている者の二つです。この二つの種類の区別はどこにあるなのでしょうか。

精神的に死んでいる人々は自分が死んでいるということを知らないのであり、精神的に生きている人々は自分が「永遠のいのち」を持っていることを知っているのであります。そこに違いがあります。私たちのまわりに多くの人々は精神的に死んでいる、その人々は自分たちがめくらであり、穴、すなわち地獄に向かって歩いていることをもちろん知りません。今生きている人々は、みな永遠の地獄で、すなわち主なる神から遠ざかって永遠の死の中に生きるか、または、主なる神の家、すなわち栄光と「永遠のいのち」に生きるかのどちらかです。人間はこの世に生きていますが、その短い年月の間に、その人間の精神が、またその肉体に宿っている間に、「永遠の死」かまたは「永遠のいのち」が決定されるのです。

もしかすると、今日もまだ救われていない、「永遠のいのち」を持っていない方がおられるかもしれない。その方々は心の中でどうしたら「永遠のいのち」を持つことができるのでしょうか。「永遠のいのち」にいたることができるかと、思案していることでしょう。ただひとりの生きておられる主なる神だけがその道を指し示そうとしておられます。神のみことばである聖書は、主なる神はもうすでに与えられたと言っています。私たちは救いを買うことも、働いて儲けることもできません。救いは自由な贈り物であり、この救いは贈り物として受け取らなければならない。そうでなければ、救いを自分のものとすることはできません。ロマ書6章の最後の節ですけども、6章23節。二つのことば、やっぱり、「死」と「いのち」ということばが出てきます。274頁です。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

もう一回読みます。ヨハネ伝10章28節ですけども、イエス様のすばらしい呼びかけ、また約束です。

わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

このみことばは何とはっきりしていることでしょう。何と力強いことでしょう。「永遠のいのち」は贈り物です。贈り物であるから、働きや人間の手柄によっては自分のものにすることはできません。絶対にできません。主なる神は「永遠のいのち」を与えられるお方です。この「永遠のいのち」はもちろん物ではない、イエス様です。だから、ヨハネと言う弟子は次のように書いたのであります。ヨハネ第一の手紙5章の11節から13節、431頁になります。お読み致します。

そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

今まで一つの点について考えて参りましたが、すなわち聖書の中にふくまれているもっともたいせつな真理、すなわち「永遠のいのち」についてでした。

今から、主なる神の道、すなわちイエス様と一緒になることについて、ちょっとだけ考えて終わりたいと思います。「永遠のいのち」は私たちとイエス様の間の問題です。すなわち「永遠のいのち」とはイエス様との一致です。聖書によると「永遠のいのち」は主イエス様のうちにあると、はっきり言っています。ですから、もし私たちが「永遠のいのち」を持ちたいのならば、イエス様がわれわれの心に入らなければならない。イエス様ご自身がいのちそのものです。もし私たちはイエス様を受け入れようとしなければ、私たちは何にも持っていないし、けどイエス様を受け入れることによって私たちは満たされ、結局すべてを持つ者となります。イエス様は祈りの中で言いました。ヨハネ伝17章の3節

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

と、あります。 イエス様は当時の聖書学者たちにちょっと厳しい言葉を言わざるを得なかったのです。ヨハネ伝の5章の39節

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

しかし、どうしたら、イエス様は、いのちそのものであられるイエス様は、私たちの心に入ることができるのでしょうか。ただ生まれることによってのみ、それができるのです。ですから、ヨハネ伝3章3節に書かれています。

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 

生まれることなしにいのちはありません。普通の体のいのちはこの世に生まれることによって得られます。と、同じように、霊的ないのちも、「永遠のいのち」も、そのようにして生まれます。「だれでも新しく生まれなければならない」とある通りです。「永遠のいのち」であられるイエス様はわれわれの心に入って来なければならないのであり、イエス様が入ると私たちはいのち、「永遠のいのち」を持つのです。

パウロは「キリストは私のうちに生きている」と言うことができたのです。だから、彼は幸せでした。だから、誤解されても迫害されても憎まれても、彼はこのイエス様を宣べ伝えざるを得なかったのです。主なる神の与えようとされたのは、一つの教えじゃなくて、いのちであると聖書ははっきり言ったのです。まことの救いは、死んで冷たい形だけの信仰じゃなくて、決まった形式でも儀式でもありません。立派な本でもないし、たくさんの戒めでもありません。まことの救いは人の心に住む神のいのちです。すなわち、イエス様ご自身です。このいのちは生きていて、実際にある真の個人的な経験です。「主なる神のいのち」は人間の心を通って流れ出るのであり、人間は主なる神のものとなっているわけです。

まことの救いはいのちそのものです。イエス様はそれを教えるために来られました。イエス様はご自分のいのちを与えるために死なれたのです。そのいのち、「永遠のいのち」とは彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることですとありました。もう一ヵ所読んで終わります。ヨハネ伝1章12節です。

この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

イエス様を受け入れることはしたがってたいせつです。ですから、私たちは誰にも言うべきです。どうか、この良き音ずれを信じ、イエス様のために自分の心のとびらを開く、イエス様を心に入れて下さい。イエス様はもちろん入ることを待っておられます。われわれの心に入ることを願っておられます。 黙示録の3章20節を読んで終わります。これは主イエス様の呼びかけの一つです

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

ともに食事をすることとは、結局親しい交わりを持つことです。神が私たちに「永遠のいのち」を与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。確かに「今は恵みの時、今は救いの日」です。自分をイエス様に明け渡し、あとで後悔するようになる人間は世界中どこへ行っても一人もいません。

(次回の家庭集会は11月13日10時半からです。)

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