2013年11月13日水曜日

お題目であってはならない「兄弟愛」

主にある兄弟姉妹が織り成す歩みは決して個人のスタンドプレーでなされる歩みではない。それぞれが自発的に助け合ってなされる共同作業だ。ましてや家庭集会はその実践の場ではないだろうか。かつてウオッチマン・ニーがどこかで「集会は語る者だけが中心になるのでなく、聞く人の心が主に向いて、語る人から主のおことばを聞こうとしているかどうかにかかっている。そのようにして聞く人もまた語る人を助けているのだ。」という意味のことを言っていたことを思い出す。

今日の家庭集会は10時半から始まった。ところが私の頭には午後から始まるというイメージがいつの間にか刷り込まれてしまっていた。その上、いつもは8時ごろには清書し始める聖句書きが、他のどうしてもしなければならない用事にかまけて後になってしまっていた。9時半ごろだろうか、階下から家内が「何しているの、もう下では用意していてくださっているのに」と言われて、ハッとした。階下で用意をしてくださっているのはまもなく90歳になろうとするご老人である。申しわけない思いであわてて階下に降りて手伝う。この分で行くと、今日は看板聖句は無理だな、と心秘かに思いながら、作業した。

一段落したら10時過ぎた。さらに一人二人と人々が集まって来られる。いよいよもって看板聖句は駄目だと観念するが、手は自然と墨汁の準備と向かっていた。かくして筆運びは雑になってしまった。そのうちにあっという間にメッセンジャーの方や証しする方もお着きになり、集会は始まった。メッセージはヨハネの福音書13章34節〜35節からであった。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

「新しい戒め」は、イエス様が神様のたいせつな戒めである「神様を愛すること」と「隣人を愛すること」をお題目として実行に移さない者のために「兄弟愛」としてお示しになったものだ。「兄弟愛(フィリオ)」は「神の愛(アガペ)」でも「人間的な愛(エロス)」でもなく、その中間に当たる。イエス様はなぜこの「兄弟愛」を「新しい戒め」としてお示しになったか考えて見たいと話し始められた。

そして、具体的な「兄弟愛」について、ルカ10・25〜37で示された隣人を愛する愛は、極めて「限定」的な人々、すなわち主の救いをいただいて御霊をいただいている人々に語られていると解き明かされた。それはお題目の「博愛の愛」でなく、具体的な「兄弟愛」なのだと聖書全体、特に主の愛された弟子ヨハネによりその福音書、手紙、黙示録を通して明らかにされているのではないかと噛んで含めるように語られた。

そのあと、別の方のお証をいただいた。お聞きするうちに、不思議な僥倖を思わされた。なぜならお二人が同年で、しかも証しする方が鬱で悩んでおられた時にともに祈ってくださり、助けてくださった方が今日メッセージされた方だと言われたからだ。お頼みした私は全く存じ上げてもいず、想像もしなかったことであった。主イエス様はいつも私たち人の思いを越えて案配されるお方であることを改めて思う。そう言えば、メッセージの中で

「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」

というおことばも引用してくださっていた。こうして不思議な家庭集会は終わり、皆さん三々五々お交わりに入られた。私たち夫婦はその後、集会に出席されている方の奥様が最近ホームに移られたので、その方をお見舞いするため、集会を中座し、後はまだお残りになってお交わりを続けておられる方々におゆだねして、ご主人とともに一緒に行く方の車に乗せていただき家を出た。

ホームでのお交わりは、嚥下障害をお持ちで、中々思うようにお話しはされないが、何よりもきよらかな笑顔で答えてくださる奥様を中心に、ご主人をふくめて五人で心から賛美し祈る交わりとなった。皆さんと別れ、二時間ほどして二人して戻ることができたが、私たちは何とも言えない幸福感で満たされていた。果たせるかな、玄関に着き、鍵のかけられたドアを開け、家に入った途端、そこには全く綺麗に後片付けされ、掃除され、整然とした見違えるばかりの部屋があった。

 秋深し 兄弟愛 語りたる 集いのあとの 部屋のぬくもり

( 次回の家庭集会は12月4日(水)14:00からです。)

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