2014年5月2日金曜日

「永遠の愛」に導かれたお母様(下)

人は死ねばどんな者もすぐ極楽浄土に行く(と考えるか)、あるいは極楽浄土に行くためにお坊さんがお経を読んで、そして一生懸命執り成されます。けれどもそのようなことは一切必要ないのです。また逆にそのようなことをしても私たちのいのちは天の御国に行くものではありません。(そのことは)逆に考えると、(死は)恐ろしいものです。だれもが天の御国に行くことができないのです。イエス様を信じ受け入れる者だけが天の御国に行けるのです。

「(このような考え方は )ものすごく独善性に満ちているのじゃないか、なぜそんなことが言えるのか、あなたは。」とおっしゃるかも知れません。けれども聖書はそのことをはっきり言っているのです。なぜなら聖書は人間の死の根本原因が「罪」であると言っているのです。「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6・23)といのちの書である聖書はこのように言っているのです。

人は、自分が気に入らないことがあったりすると腹を立てるものです。でも、いつもそんな時ばかりではありません。サラリーマンとして一生懸命に家族のために犠牲を払って生きて来、人様から何の後ろ指を指されることをした覚えもない(特に法律上の罪を犯したこともない)そんな自分に向かって薮から棒に「罪」と言われても、何だ、と多くの人は思われると思います。でも聖書が言っている、死の原因は罪であるということについて、真剣に考えて見る必要があります。

聖書が私たちに伝える罪は(育ててもらった)子どもが親に向かって、あなたは私の親でないと言うようなものです。親でなくてももし子どもがそのような態度を取るなら、人はとんでもない子どもだと言うに違いありません。しかし、実はこのどうしようもない子どもが私たちで、私たちにそんなことを言われてもじっと我慢している親が神様だとあてはめて考えればいいのではないでしょうか。

神様は天地創造の主です。私たちをそれぞれ母の胎内のうちに育まれた方です。そしてそれこそ太陽、水、空気とその他実に様々な恩恵を与えて、いらっしゃるお方です。私たちが静かに胸に手をあてて考えて見れば、びっくりするような愛のうちに私たちの命を支えておられるのです。まさしく「永遠の愛」をもってわたしはあなたを愛した、わたしはあなたに誠実を尽くし続けたと言われる神様です。

そのお方は、私たちにとって目に見えないお方です。私たちの心のうちには、でもどんな人間にも、霊、その神様に応答する霊が与えられているのです。その証拠に、恐らく先頃韓国の水没する船の中で多くの人が「神様!助けてください」と叫んだのではないでしょうか。何と悲惨なことかと私たちは思います。けれども「助けてください」という祈りは必ず聞かれるのです。問題は私たちが助けてくださる神様を認めない、神様に感謝しない、ちょうど子どもが親に育ててもらったのに、親を親として認めない。それが罪なのです。


「自分の人生だから自分の思うように生きていいじゃないか。何でそんなことを言うのだ。」と人は思うのです。罪というのは自分がいつも主人で、神様の前に頭を下げたくないという心です。そしてその心は偉そうなことを言っている私の心のうちに(つねに)あるんです。そして私だけでなく、ここにいらっしゃるすべての人が同じように神様が信じられないのです。神様に対する不信仰と言う罪をもって人は生まれて来ているんです。その結果が死だと言うのです。死は平等です。なぜならすべての人が罪人ですから。

でも、イエス様は、その、人が自分を認めようとしない罪、神様を認めようとしない罪が、結局、人が生きていく上でどんなに様々な不安や恐怖に陥れ、またその挙げ句、罪を持ったままで死んでしまえば、死後二度と生ける神様と交わることがない、それこそ「地獄の死」という苦しい目にあうかを一番良く知っておられるのです。

そして、父なる神様は、罪人が(悔い改めて)自分のところに帰れるように尊い御一人子であるイエス・キリストをこの地上に人として遣わしてくださったのです。この方はそのような私たちのわがままな罪を、自分の(父なる神から受ける)罰として十字架で全部負わせられたのです。それが2000年前のイエス様の十字架上での死(と三日後の復活の事実)です。


H子お母様はこのイエス様をご自分の救い主として信じられたのです。イエス様を信ずるとは自分のわがままな罪は全部イエス様が背負ってくださった、ありがとうございますという態度を持つことです。その態度を持つ人は罪の支払う報酬である「死」から完全に解き放たれるのです。もはや「死」はその信仰を持つ人を支配しないのです。そうでなく、神の下さる賜物である永遠のいのちをいただき、「いのち」が生き続け、そして死後も支配する生活です。
 
H子お母様は私たちの目には死んだように見えますが、それは肉体が死んだだけです。この確かな信仰を持たれたH子お母様の霊は神様の前で死んでいるのではありません。ここにいる誰よりも幸せなのです。それはもはや病気になることや様々な恐れを持つ状態から解放されているからです。イエス様は
 
神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。」(ルカ20・38)
 
と言われましたが、H子お母様は神様の前に生きておられるます。
 
だから私たちは死を忌まわしいものとして恐れる必要はないのです。また別離を悲しむ必要はないのです。神様の前に生きておられる方、誰よりも幸せでいらっしゃるH子お母様と天の御国で会える喜び、それを獲得すべきなのです。

けれども、
お母様と天の御国で再会するためには、私たち自身が神様の前に生きている必要があります。先ほども申しましたけれど、神様の目から見て、人は生きているか死んでいるか、それを神様は見ておられるのです。それは、今生きていても神様を信じない者は、神様の目から見ると、失われた人、死んでいる人なのです。今何も言うことのできないH子お母様は死んでいるように見えますが、その霊はいずれ不死のからだを着せられるまで神様の前で私たちの来るのをイエス様と一緒に待機して待っていてくださる、誰よりも生き生きとして生きておられるのです。

お母様の死は決して終わりではありません。天の御国にいらっしゃる。そのことを私たちは確信したいと思います。お手元のソングシートの賛美の歌詞にありましたが、それはお母様の姿を歌ったものです。日々の歌223番の歌は

水晶のように光る川のほとりでまた会いましょう。神様の川はやさしくやさしく流れ、みんながまた集まるその楽しさよ

と書いています。この歌は聖書の黙示録のみことばが出典となっています。その黙示録のみことばを読んで終わりたいと思います。

御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」と言った。(黙示22:1〜6)

「信仰」は信心ではありません。正面の掛け軸に書かれているみことば

わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネ11・25)

「よみがえりです。いのちです。」と言われる方(イエス様)をお母様は信じて私たちよりも元気です。私たちの大好きなお母様と会うためにはどうしても(イエス様を信ずる)「信仰」が必要です。      

0 件のコメント:

コメントを投稿