2014年5月31日土曜日

われもまた天国の門前で哀哭歯切することなかりしか

昨夕、一人の方を訪ね、共に語らった。その方は私に「自分はあなたのように入信することはむつかしい」と言われた。「入信」と言われて、その真意をはかりかねたので、内村の『宗教座談』の中の天国談を思い出し、その話の大要を紹介させていただいた。まわらぬ舌はどの程度その話を正確にその方に伝え得たか心もとない。しかし、その方は大いにこの話に関心を示された。再度確認するためにその文章を写させていただく。内村はその宗教座談の最後で天国について二回に分けて語るが、それを閉じるにあたって次のように言うのだ。

しかし、この談話を終わります前に、天国についてなお一つ述べ置きたいことがございます。それは私どもが天国に行きました時に、その市民の中に思いがけない人の必ず多いことについてであります。多分かような人は決して天国にはいるまいと思う人がたくさんにおりましょうし、この人は必ずいるであろうと思うていた人がおりますまいと思います。

そしてそのような例として自信満々の宣教師、さては慈善家、牧師などがイエス様ご自身に頼ることなしに、この世でその地位・名誉をいただきながら天国の前で、門前払いされることに抗議するさまを描写しさらに次のように語る。

そうして彼らは一同に声を上げて天国の門衛に迫って申しましょう。「彼の人(天国の市民の一人を指して)は世にあってはかつて安息日に彼の職業に従事して神の聖日を汚した者であります。彼が天国にある理由はありません。」と。

また彼らは他の天国の民を指して申しましょう。「この婦人は在世の間はろくろく教会に出席したこともなく、かつその行状には我々どものゆるしがたきこともたくさんありました。彼女は実は洗礼もいまだ受けざるくらいの者でありまして、彼女が天国にあらんなどとはもってのほかのことであります。」と。

その他天国在住者に対しては彼らの批評が区々でありまして「彼はかつて姦淫を犯したことがある」といい、「この者は酒と煙草とを用いし者である」といい、「彼は洗礼の必要を否みしことがあり」といい、「これはかつて外国宣教師に無礼を加えしことがある」などと申します。

そうして彼らが失望落胆のうちに逡巡しておりますときに、門内より大喝一声して彼らに告ぐる者があります。

働きによるにあらず、その署名せし教義のいかんによるにあらず、その属せし教会のいかんまたは有無によるにあらず、また必ずしもその行状の完全無欠なるによるにあらず、すべて神を信じ、キリストにおいて現われたる神の救済を信じ、その罪を悔い神により頼みし者はすべてここにあり。しからざる者はその神学博士たると、牧師たると、宣教師たると、キリスト教文学者たるとを問わず、彼らは皆この国に入るの一つの資格をも有せざる者なれば彼らは速やかにここを立ち去るべし

と、時に私どもは彼ら一同の人々が哀哭歯切(かなしみはがみ)するのを見ることでございましょう。(内村鑑三全集第8巻197〜199頁より引用)

以上、内村のおよそ今から114年前、すなわち1900年(明治33年)の文章を紹介させていただいたが、もちろんこのような「天国」に対する洞察は内村独自のものではない。イエス様のおことばそのものが源流であり、救いの原点であるからである。

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2・8〜9)

わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイ7・21〜23)

信仰から出ていないことは、みな罪です。(ローマ14・23)

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