2014年5月22日木曜日

Immel wenn der Tag beginnt

ドイツ映画『朝な夕なに』を半世紀ぶりに観た。 もっとも全編を観たわけでない。YouTubeで4つのシーンを断片的に観たに過ぎないが、往年映画の印象として心の奥にしまっていた清らかな想いと実際の映画とは随分異なることに気づいた。

筋はギムナジウムの教師と生徒との交流が描かれるのだが、その中に男子生徒が女性教師に思いを寄せるということがあったように思うが、一つ一つのシーンは観ていた自分の中で時の経過とともに自然と思いが浄化されて行っていたのであろう。けれども当時は気づかなかったが、自らの青春の蹉跌がそのままそこに描かれているのは間違いなかった。

この映画は高校の映画鑑賞会の一環として映画館に出かけて観させられたものであるが、それが一年の時か、二年の時かはっきりしない。1958年9月が日本での初公開であったようだが、私の高校は地方都市にあったから、それよりは後であろう。当時教師陣はどのような思いでこの映画を選ばれたのだろうか。ましてその後、自らがその教師の端くれとなることなど思いも寄らなかった。

映画の中の葬送のシーンで悲しくも切なく流れるトランペットの演奏「真夜中のブルース 」はベルト・ケンプフェルトのヒット曲になった。ソニーのテープレコーダーを使いオープンリールで録音もし、私にとっては忘れがたい曲であった。

高校卒業後二ヵ月ほどして亡くなった母の追悼に、その夜一室にこもって繰り返し流したのもその曲であった。そうでもしなければ私の悲しみは癒されなかった。

往時、喜びもし悲しみもした事柄は、半世紀後の今の自分にとって別世界のように思える。それは生けるまことの神を知らなかったゆえの喜び悲しみであったからである。

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。笑うときにも心は痛み、終わりには喜びが悲しみとなる。(箴言14・12〜13)

このドイツ映画も神不在の映画であろう。確かに葬送の場所はドイツの教会である。しかし、そこには悲しみしか描かれていなかったからである。葬送の場面を観ながら、このシーンはどこかで観たことがあると思った。それは同じドイツ人であるゴットホルド・ベック氏がお嬢さんのリンデを20歳で亡くされた時の葬送を写されたビデオを思い出したからである。

場面は同じようにドイツの墓地であるが、そこには悲しみだけでなく、喜びが満ちあふれていたからである。53年前、母の死を悲しむ術を知らなかった私だったが、母の死をとおしてまことの神様イエス様を知るように導かれ、半世紀後の今も主の愛のうちに生きている。もし主イエス様を知らなかったら、『朝な夕なに』の映画は依然として私のノスタルジーである記念の作品であり続けたかもしれない。しかし、それはカタルシスであって、死への勝利を約束するものでない。

『実を結ぶいのち』という本の中で「死は勝利にのまれた」と題してゴットホルド・ベック氏は次のように書いている。「世界は、今しばらくの間、神の許しによって、悪魔の支配にゆだねられています。その結果、大勢の人々が惑わされ、真理に対して盲目にされています。人々は、この地上で心の満足と真の幸せを手に入れることができると思い込もうとしています。しかし、それは幻想です。神の御子、主イエスだけが、私たち人間の心に真実の満足を与えてくださるということを、愛するリンデとともに、読者の皆さまにお伝えしたいと願っています。」(※)

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6・23)

愛する母は53年前の今日召された。主を知ることはなかった。しかし臨終にあって一人息子を置いたまま死んで行かなければならないことを思い、両目から真珠のような涙を流した母の想いを主は受けとめてくださったと知る。

(※『実を結ぶいのち』ゴットホルド・ベック著4頁より引用)

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