2014年5月8日木曜日

十字架こそ唯一の救いである(下)

「私たちの主キリストのものとなり」賛美の大団円
聖書は言っています。

わたしは主であり、あなたの医者である。

主イエス様がこの地上におられた時、ご自分が偉大なる医者であることを証明してくださいました。盲人が目に見えるようになりました。足なえが歩けるようになりました。死人もよみがえらされました。イエス様の最大の批判者、および敵でさえも目の前で起こった奇跡を否定することはできませんでした。なぜなら彼らはそれらの奇跡をすべて自分の目で本当に見たからです。旧約聖書の中でイザヤ書53章に次のようなことばが記されています。

救い主はわれわれの病をにない、われわれの苦しみをご自身の身に受けた。主イエスの、救い主である主イエス様の傷によって私たちはいやされた。

罪の支払う報酬は、死です。けれどイエス様はこの報酬をご自身の身に受けてくださいました。主イエス様はわれわれの代わりに罰を受けてくださったのです。イエス様は債務を支払ってくださいました。唯一の主なる神が今日提供したいと思っておられることは先ず第一に、富とか健康とかいうものではなく、わがままの赦し、絶えざる喜び、まことの平安です。

それでは、人間はどのようにしてこれらのものを自分のものにすることができるのでしょうか。主イエス様のみもとに行くことによって、主イエス様に自分の債務を告白することによって、そしてまたイエス様を信じ、忠実に従うことによって、です。恐らく私たちの中にはまだ精神的に悩んでいる人や、主なる神との平和を持っていない人や、希望と喜びを持っていない人もいるかもしれない。そのような方々に私は次のような勧めを致したいと思います。どうか次のように祈ってもらいたい。

イエス様、どうかあなたが私の生活を見ておられるように私に私の生活を見させてください。

この祈りは必ず聞き届けられ、あなたは次のことを知るようになります。すなわち、あなたの生活のうちには何一つ主なる神によって受け入れられるものはない。ひとつも、ということです(※)。誰でもは、死、すなわち主なる神との永遠の隔て以外の何ものにも値しないものでしょう。けれども、生けるまことの主なる神はお一人お一人にも主イエス様による永遠の救いと罪の赦しが人間一人一人のために備えられていることを聖書ははっきり言っています。十字架においてイエス様は聖なる神のさばきを受けてくださいました。イエス様はわれわれの身代わりとして死んでくださいました。そして、イエス様の死と、イエス様のよみがえりこそ、罪の赦しの土台また源です。自分のあやまちをイエス様に打ち明ける者は次のことを知ることができるようになります。

すなわち、私のあやまち・わがままは赦されている。イエス様は私をも受け入れてくださった。私は新しいいのちを持つことが許されている、と。

聖書の言っている「罪の赦し」と「薬」とはお互いに似ている点を持っています。 すなわち誰もそれを受け入れることを強制できません。医者はあなたに薬を与えることが出来ますが、それを強制することはできません。それと同じように、主なる神も御子イエス様を通して罪の赦しを与えたいと望んでおられます。けれども、その救いを受け入れ、永遠に言い表わすことのできない栄光のうちにイエス様とともにいるようになるか、あるいは、主なる神なく、望みなく、永遠の時を送らねばならないか、に対して責任を問われています。たいせつなことは、肉体上の健康でもなければ、またはたくさんのお金を持つことでもありません。また、多くの友だちを持ったり、権力や名誉を持つことでもありません。たいせつなことは、人間が債務の重荷から解放されること、そして、主なる神が自分の罪を赦してくださり、自分に永遠のいのちを与えてくださったという確信を持つことです。人間は自分の健康や名誉のためにどれほど測り知れない努力をしているかわからないほどですが、「死後の世界」、「永遠の救い」については何も考えていないとは、何という悲劇でしょうか。

今日、ここにおられるすべての方々が自分の罪と債務を主イエス様に告白し、そしてイエス様は私を受け入れてくださったから、私は救われているということを体験なさることこそ私の祈りです。ただイエス様にだけ私は従いたい、ただイエス様にだけ栄光があるように、という切なる願いを持つ者は大いに祝福され用いられるようになります。

( ※その若き友人は「ゼロからのスタート」をした自分にとって、もはや自らに依り頼むなにものもない、イエス様だけに頼るんですと言った。考えて見れば、上のメッセージ中のわが「生活のうちには何一つ主なる神によって受け入れられるものはない。ひとつも、」ないことを心の底からその友人は言っていたのだ。友人と言ったが、実際はわが息子とも言って良い年齢差が私たちにはある。にもかかわらず、私もまたその友人と同じように、わが詰まらぬ誇り・自我から離れて、ゼロからのスタートをせねばならないことを改めて意識させられた。そこには私たちがともに神の子であり、ともに兄弟であるという不思議な一体感の醸成があった。車の同乗を願ったばかりに、渋滞まじりの高速のドライブはこうして互いに望外の幸せを主イエス様から提供される一時となった。)

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