2019年3月24日日曜日

天国への招待状

by Tsutomu.S

イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11・25)

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3・3)

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5・17)




 昨日は、故古川卓兄のお別れ会に出席させていただいた。長年、会社の発展のために尽くされた(※)。そのため、多くの会社の方々が出席された。特に前社長の方の弔辞は真情のこもったものであり、会葬者の心を打った。

 それに対して、私が知遇を得たのは、ここ三、四年のことに過ぎない。しかし、たとえ年数は少なくとも主にあって親しい交わりと同氏からいただいた数々の慰めと心の暖かさは忘れがたい。当日、私も話させていただいたが、15分の約束のところ、冗長な話のため、時間がオーバーしたので、最後の肝心なところを割愛せざるを得なかった。この紙面でそれを補うことにする。題して『天国への招待状』である。冒頭のみことばとあわせてお読みいただきたい。


 D.L.ムーディーというアメリカの有名な伝道者が次のように言っています。

 私たちの国には、この国で生まれたものでなければ合衆国の大統領になることはできないという法律があります。外国人がだれ一人としてこの法律に文句を言ったことを聞いたことがありません。としたら、天国の神が、だれがその国にはいるか、またどうしてそこへはいれるかを決める権利を持っておられないはずがあるでしょうか。私は神がその権利を持っておられると思います。

 次の質問は実に恐ろしいほど厳粛な問いです。今それを自分自身にあてはめてみてください。

「私は生まれ変わっているだろうか。私は私のいのちである神の賜物を受けているだろうか。」

 もしまだ受けていないとしたら、あなたは絶対に神の国を見ない、という真理をあなたの肝に銘じなさい。あなたはこの世の王国を見るかもしれませんが、神の御国を見ることは決してないのです。あなたは大西洋を横断してロンドンへ行き、英国皇太子を見、オランダ女王に会い、その他の国々に行けるかもしれません。しかし、平和の君を見ることは絶対にないのです。あなたの目は、生まれ変わらない限り、平和の君に注がれることはないのです。

 愛する子どもを失った母親の方たちに申し上げます。あなたはイエス・キリストに希望を置いていないかもしれません。つい数ヶ月前に取り去られたあの小さな子どもは、あなたの胸のあたりにからみつくようにして暮らしていました。しかしやがて死が襲ってきて、あの小さな子どもをもっと輝かしい、よりよい世界に連れて行ったのです。あなたは神から生まれなければ決して二度とあの子どもを見ないのです。


 いかがでしょうか。卓兄弟と再会できるのは天国です。そして天国とは新しく生まれた者でないと入れないのです。卓兄弟の召天はこのように再会の喜びを約束すると共に、一方では決して再会できない道をも示しているのです。卓兄弟の召天を記念するこの集いをとおして、私たちはこのことを厳粛に受けとめたいと思います。

(※同氏については下記のとおり、かつてこのブログで紹介したことがある。http://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2016/11/blog-post_7.html )

2019年3月17日日曜日

1969年3月12日(完)

巌華園 主を知りぬる  館なり 半世紀経ち 思い出尽きぬ

彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世記15・6)

 白旗を上げたのがいつのことだったのか覚えていない。しかし、神様の大鉄槌を受けながら、すぐに主イエス様の軍門に下ったのではない。その間、様々な方々が私の救いのために祈って下さり、労して下さった。それがどういう順序であったかは思い出せないのだが、いくつか鍵になったみことばをあげてみよう。

 先ず第一に「神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」(1コリント1・21)というパウロのことばに出会ったことである。このことばは京都北大路にあった教会の玄関かどこかで、神学生だった方から教えていただいた。私は当時、何とか人間理性を満足させる確かな証明が欲しいと思っていた。しかし、その方の言をとおして、それは誤った求め方だとはっきり示されたみことばであった。

 次に「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ8・10)であった。このみことばはむち打ち症が一向に良くならず、苦しんでいた私に教会の牧師夫人により東京保谷市に住んでいらしたカイロプラクティックをなさる方が紹介されたことによる。この方はカナダの女性宣教師ベイカーさんと言う方であった。その方は日本語が得意でなく、英語で会話しなければならなかった。治療そのものもそれまで安静治療を続けていたのに一転して荒療法が始まり、抗議するわけにもいかず俎板(まないた)の鯉も同然であった私が、辛うじて発した「キリスト教真理を一言であらわすみことばは何か教えて欲しい」という質問に対して示して下さったみことばであった。

 このみことばは、信ずる対象がはっきりしなければ、信じようがないではないかと思っていた私に、ないものねだりをしていてもしょうがないよ、今あなたが信じている神様を喜べばいいんだよと、あれやこれや理屈をつけ、プール際で飛び込むのを躊躇していたも同然の私の肩をそっと押し出す役割を果たしたみことばであった。

 決定的な決め手になったのは、「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15・6)であった。このみことばは当時『創世記』をある方の注解書を参考に読むうちに、強く促されたみことばであった。

 前にも述べたが、私には不如意な身体の痛みが常時あった。一方、結婚しても子どもが与えられないのではないかという不安に苛(さいな)まれていた。その時、アブラム自身(多分75歳前後であったであろうが、子どもがずっと与えられなかった)に主なる神様があなたの腰の骨からあなたの子どもが与えられる。そしてその子孫はあの空の星のように数多くなるであろう、あなたはその星の数を数えることができるのか、とおっしゃる場面がある。

 この場面を50年前、当時下宿させていただいていた足利の旅荘『巌華園』https://gankaen.it-b.comの洋館の一室でその夜読んだ。私の心のうちに素直にアブラムの思い・信仰がそのまま入ってきた。そして自らもアブラムの見上げた星を見ようと、夜半であり、まだ暗闇の濃い外に出た。旅荘の前には小川と橋があり、その手前には畑があった。そこで一人輝くばかりの空を見上げた。満天の星空は私を圧倒した。創造のみわざが胸に迫ってきたからである。私は畑の一隅を見つけ、思わず膝まづいて祈らずにはおれなくなった。

「わたしは今まであなたがおられないと思っていました。だから、そのように歩んで来ました。お許しください。今、あなたがおられることがわかりました。これからはあなたに従って参ります。」

 こんなことばであったかどうかは覚えていないが、大要はこんなところであったろう。それまで弱いくせに肩肘張り、強がっていたに過ぎない無神論者であった私が百八十度向きを変えて、創造主である神様の前に一歩踏み出した瞬間であった。そうこうする内にいつの間にか、空は明けやり、暗闇から光に移り変わる光景まで目の当たりにし、私はますます荘厳な天地万物の創造者を心のうちに覚えさせられたのであった。

 これが、1969年3月12日に、想像もしなかった交通事故を通して地面に叩きつけられた私が、数ヶ月かかって自ら主なる神様の前に出て膝を屈することのできた経緯(いきさつ)であった。しかも、それは決して婚約者が証ししていた十字架のイエス様の贖いの愛を知ったものではなかった。それを体験するためには、私の罪のうちにある汚れは深く、もっともっと多くの時間が必要であった。

 しかし、全知全能の主は、季節外れの雪と交通事故をとおして、私と婚約者の真の不一致にメスを入れ、私たちが同じ主に向かって祈ることのできる自由を与えられ、結婚へとゴーサインを出して下さった。その後も相変わらず両親の結婚反対の態度は変わらなかったが、翌年の1970年4月26日に私たちは結婚した。そしてこのようにキリスト信仰に頑強に反対していた両親にも後には福音は浸透し、父と義父は福音を拒絶する者でなくなり、特に継母と義母は20数年後、主の御前に悔い改めて天国へと凱旋させていただいた。主のなさることは計り知れない。

2019年3月16日土曜日

1969年3月12日(4)


私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(2コリント5・20後半〜21)

 ところで、私の病床生活は、篝火(かがりび)の聖書が枕辺にあったとは言え、相変わらず全くわがままそのものの生活であった。第一、突然の事故にびっくりして、いち早く滋賀から見舞いにかけつけた継母を、私は事もあろうにすぐに追い返し、「今必要なのはあなたが反対している婚約者だ」とまで言い切る始末だった。継母はこの私の心ならぬ言動に、全く心の深いところを傷つけられたまま、来た道をその足で即座に帰らざるを得なかった。以後20年余りの間、私はこのことをふくめて自身の大きな罪の刈り取りをなさねばならなかった。

 一方婚約者の願いで鴻巣からわざわざ見舞いに来てくださった牧師さん(※)に対しても居丈高(いたけだか)な態度で終始した。あなたの言うキリスト教などは受けつけないよ、という態度であったからである。そのくせ私の病床を慰めたのはバッハの様々な楽曲であった。ブランデンブルク協奏曲、無伴奏チェロ組曲などを小さな卓上プレーヤーで何度も聞いた。しかしそれはヨーロッパ思想の一翼としてのキリスト教文化に浸っていると言う感覚的なものに過ぎなかった。

 6月過ぎにやっと退院できた。相変わらず、首にコルセットをつけていたが、婚約者の勧めもあって遠く鴻巣まで電車、バスなどを乗り継いで教会に通った。もちろんいつも座る場所は一番後ろであり、信じたいのはやまやまなのだが、一方でそう簡単には信じないぞと言う知的貴族を装っており、傲慢そのものであった。でも牧師の聖書の話には批判的であっても、聖書そのもののことばには私をとらえてやまないものが徐々に出て来た。こうして婚約者とも聖書を共通項とする手紙のやりとりができるようになった。

 それまではもっぱら婚約者が書いてくる信仰の勧めに対して、私は自分自身で探求して来た古今東西の思想家の言を盾にして私の思想を説きすすめ、双方の手紙の主張は信者と未信者のそれとして対立したままで、こと信仰に関しては平行線を繰り返すのみだった。唯一、二人を取り持ったのは互いの「愛」だけであった。ところが、この愛は当時私が気づいていなかっただけで、本質において全く相反する愛であった。私の愛は惜しみなく奪う自己中心の愛であるのに対して、婚約者の愛は主なる神様から流れ出てくる愛であった。この愛の綱引きのうちに、私はいつしか自己の良心が許さず、婚約者の前に自分の罪を言い表さざるを得なくなった。 

 帰って来た返答は自分もあなたと同じ罪人の一人だ。私の罪もあなたの罪も、神様の御子であるイエス様が「代わりに」罰を受けて十字架上で死なれたので、もう赦されている。だからイエス様に重荷(良心の呵責という)を下ろしてくださいという心からする慰めのことばであった。私にとって婚約者が私の罪をそのまま受け入れてくれたことは極めてありがたかったが、その赦しがどうしてイエス・キリストと関係があるのかわからなかった。わからないまま、許されたから、これでいよいよ結婚できると喜んでいたのだ。

 そうした挙句、最初に飛び込んできたのが、この彼女のキリスト信仰が祖先以来何代も続き、宗門改帳を管理し伝統を重んずる庄屋を出自とした彼女の家で大問題になり、ひいては嫁ぎ先である私の両親もそのようなキリスト信者は到底受け入れられないという具合に、両家・親族を巻き込んでの猛反対に発展して行った出来事である。それは何とか、彼女にキリスト信仰の看板を下ろさせようとする動きとなり、それに抵抗する彼女はとうとう私との結婚を断念するという事態にまで追い詰められていたのであった。事情が事情だけにそれぞれが(両親、私たち)苦しみ抜いた結婚騒動となった。

 こうして、その手紙を受けて進退窮まった私を待ち受けていたのが、50年前の3月12日の大雪であり、私の交通事故と上からなされたとしか言えない急速な事態の進展であった。しかし、振り返ってみれば、何よりもこの出来事は、後年、全家族を主イエス様の救いへと導く導火線となる、貴重な出来事であった。それには先ず、己が罪に汚れに汚れ切っていた私が、そのままの姿で生けるまことの神様の前に白旗を上げて全面降伏しなければならなかったのであった。

(※家内はこの勝山出身の牧師さんの妹君を通して信仰に導かれた。またこの方は私のかつての親友の大学の先輩でもあり、「主は生きておられる」50号62頁所載の方のお父様がこの方の高校時代の先生であったが、昨年召された。私の救いのために当初から祈って下さった方である。)

2019年3月15日金曜日

1969年3月12日(3)


人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。わきまえのない者は何でも言われたことを信じ、利口な者は自分の歩みをわきまえる。(箴言14・12、15)

 そもそも私たちの結婚にはこの両親の反対が始まる前に、私の「良心」の命ずる大きな障害があった。それは私自身が過去犯した罪の問題があったからである。しかし、その罪は私自身が婚約者にその罪を告白しその許しによって、その障害は取り除かれた。だから、私自身は結婚は何の障害もないと確信していた。当然のごとく婚約者も同じだと思っていた。

 しかし、婚約者の心底の願い、祈りは、私が良心のとがめより脱することだけでなく、何よりも「私の魂が救われること」、すなわち、私が真に神様への悔い改めをとおして得られる「まことの平安」を得て欲しいということであった。彼女にとっては、結婚以前に何よりも私の魂が大切であった。それは主なる神様の思いと同じであった。だから、彼女は両親が自分がクリスチャンなるが故に結婚を反対されている、それが主の示される道なら、それに従おう、結婚はあきらめるという思いであった。

 主なる神様は私の罪が、人に対する罪である前に神様ご自身に対する罪であることを知らしめるために彼女にこの思いを与え、かつこの交通事故をとおして語り続けて下さった。それは当日何のかすり傷も負わなかったと喜んだのも束の間、その実、「頚椎損傷」の傷を負い長期療養を必要としたことによるものであった。その間の事情は次の通りであった。

「たいしたことはない」と彼は私に知らせた。だが私は日赤病院に行くように勧めた。「異常なし」という診断だった。若い医者だったと言った。ところが一週間して手が痺れると言った。私は彼を佐野市の林整形外科に車に乗せて診察してもらった。診察した結果、「頚椎損傷」で急遽入院となった。彼は自転車だったので私が車で足利と佐野を往復して入院させた。彼の許嫁が滋賀から見えた。滋賀県から新卒で単身赴任したばかりの彼には相談相手がいなかった。私は彼と相談して警察に報告することにした。(倉持良一著『正論は反の如し憎まれっ子・世に憚れ』148頁より)

 交通事故は即刻警察に連絡しなければならぬ。普通ならあり得ないことだが、それから一月あまり経って、この方の警察署への働きかけで現場検証をしていただいた。こうして事故処理をめぐっての相手方との交渉など、結婚話は進むどころか、一時棚上げせざるを得なくなった。『示談』(玉井義臣著)https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2009/10/blog-post_4128.html
を読み、交渉を通して加害者、被害者としての心の内を知る中で、人間の罪深さを嫌という程味わわされた。一方、入院生活を続けても病は一向に良くならず、当然のごとく担任は降りざるを得ず、職場復帰も6月を過ぎていたと記憶する。

 このように、関西から遠く北関東足利の地へと、新天地での仕事を得、人生設計に自分なりの青写真を描きつつあったが、再び新たな蹉跌(さてつ)を経験せざるを得なかった。前途に描いた愛する者との結婚生活も、自身の体調がままならず(首にコルセットを常用せねばならず)このままでは結婚生活はそもそも無理ではないかという大きな不安が新たに生じていた。その入院期間中であったろうか、婚約者は自分の聖書を私にプレゼントしてくれた。その聖書の裏表紙には彼女の字で「聖書は私を罪から遠ざけ、罪は私を聖書から遠ざける」と墨書してあった。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/07/blog-post_30.html そしてこの「聖書」が、心身の不調を常時かこつ苦渋の生活の前面に、篝火として私の全存在を照らし始めたのであった。

2019年3月14日木曜日

1969年3月12日(2)


子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる。(箴言23・13〜14)

 一昨日、五、六人の集まりで、50年前のこの日の季節外れの雪の話をしていたら、その日は東京でも雪が降り、積もったようで、それぞれの方はその日のことを期せずして思い出すことができた。一人の方は坂を利用してスキーをしたと言われるし、別の方は三田の大学に出かけるのに苦労したと言われた。それぞれ、浪人生であったり、大学生であったりして、当方はすでに26歳で社会人であったのだから、思いがけず、その頃の各人の生活の有り様と今の有り様が比較できて面白かった。

 ただこの日が私にとって人生の一大転機となったと言うには、わけがある。日記が示すとおり、その前夜私は眠るに眠れなかった。それは精神が著しく高揚していたからである。当時、私は結婚を決めており、年初に結婚相手の先方の両親に挨拶に伺い、双方の合意があり順調に進んでいた。ところがこの頃双方の両親の反対が表面化して、婚約者から結婚を断念するという便りが届いたのだ。両親の反対の理由はひとえに婚約者がクリスチャンであるからと言う理由であった。

 当時、私自身はイエス・キリストを知らず、もちろん信じてもいなかった。ただヨーロッパ思想としてのキリスト教には関心がないわけではなかった。だから自らは信仰を持たないが、親が個人の信仰を云々して結婚話を白紙に戻そうとしていることには全く合点がいかなかった。その上、私の両親が結婚するとき、親族が反対して難航したことを聞かされていたので余計その思いは強かった。(両親の場合は戦争未亡人のところに父が養子に入るとは、たとえ二人が熱烈に愛し合っていても、それはもっての他であるということだった。)だから、私は何としてもこの二代続きの結婚話否定の動きは自分の力で阻止しなければならないという思いと、婚約者の断念を何としても覆すためにも、自分はすべての人の思いを調停せねばならない、またそれは自分しかできないという思いで、一人その精神は高みに達していた。

 その私の自己中心の思い(神様抜きの考え)を神様は見透かすかのように、数時間後には、夜半から降り続いた突然の雪で全面真っ白な銀世界へと変えられてしまった山道を自転車で登り急ぐ私を、上から降りてきたマイクロバスを使って地面に強く叩きつけられたのだ。それは神様による自己を神としてやまない私に対する大鉄槌であった。そもそも、婚約者自身が最も強く願っていたのは私自身がイエス・キリストを信じるというものであった。その願いは、文通でしか互いの思いをあらわしえない(遠距離交際ゆえ)中で、婚約者が始終明らかにしていたが、こちらは高を括っていたのも同然であったからだ。

 そのような私が自らの人生を総点検し、主イエス・キリストの神に立ち帰るきっかけになったのは、まさにこの50年前の3月12日の一瞬のうちに経験させられた交通事故が始まりであった。しかし、その意味が本当に自覚できたのは、この後、春を過ぎ、夏を過ぎ、9ヶ月余り過ぎた冬であった。当時は何と自分は運のいい男だ、こんな大変な目にあっても、何とかすり傷一つ負ってはいないではないかというこれまた大変な思い上がり、自己過信であった。 

2019年3月13日水曜日

1969年3月12日(1)


わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。(箴言3・11〜12)

 先週の木曜日、一冊の本の所在を求めて、半世紀前に勤務していた高校図書館に電話した。旧職員からの電話とは言え、高校側から言えば大変な迷惑な話だと思った。電話口に出てくださった方は事務の方だと思うが、「今日は入試なんです」と仰った。重ね重ね失礼をお詫びし、再度掛け直すことにした。

 なにゆえ、こうして電話をかける気になったのか、自分でも不思議だったが、瞬く間に50年前のことを思い出した。そう言えば、あの日も入試の前日だった。その日は季節外れとも言うべき雪が朝から激しく降る日だった。その日(3月12日)の日記が次のように語る。

 眠れないで眠れないで、朝起きたら外はいつの間にか深々と雪に覆われていてしんしんとしていてまるで昨日とは別世界のようだ。ラジオを聴いていると名古屋は雨が降っていて空は真っ暗でまるでこの世の終わりみたいだと話している。(朝のスカイパトロールというTBS独特の放送)雪が顔面に降り続ける中を、40分ばかりかかって登校した。学校の近くの山道から降りてくる幼稚園のマイクロバスともろに衝突した。瞬間、頭がくらっとしたが、幸い怪我はなかった。全く奇跡としか言いようがない。まだ心臓が痛むが、怖さで・・・昨日、一昨日とハンドボールの練習をしていた効果が意外なところにあらわれた感じだ。全くうまく田んぼの中へ倒れこむことができたからだ・・・

 今日はA氏と二人で入試問題の保管安寧のため宿直だ。未明から降り始めた雪はとどまるところを知らずに、ついに交通はストップし明日に予定されていた高校入試も一日順延されることになった。朝の衝突でやはり頭の芯がけだるく痛いが、ハンドの練習の疲れのせいもあると思うから一日今日ぐっすり寝て様子をみることにする。

 しかし、この出来事は私にとって人生の一大転機となった。そのことは改めて記すことにして、高校図書館に所在を求めた本について記す。その本の所在が気になったのは、最近旧約聖書のエステル記の関連で、DVDで『プリンセス オブ ペルシヤ』を視聴し、ペルシヤ帝国の実態を映像で知り、かつて50年ほど前この図書館にあった本がどうしても見たくなったのだ。問題は書名、著者名など一切思い出せない体たらくだった。ところが、司書の方と電話でお話しているうちに、それまで何としても思い出せなかった著者名が鮮やかによみがえってきた。

 その本は、並河萬里さんの『ダリウスの遺産ーペルシア・メソポタミア文明』であった。しかも1970年刊行であった。昨日司書の方からごていねいに電話があり、「その本ありました」ということだった。私は私で、とても勤務校には遠方で赴けないので、昨日吉祥寺からの帰り道、千代田図書館に出向き、その本を半世紀ぶりに手に取ってみた。帯出は可能なのだが、何しろ大型書籍なのでやめた。三笠宮が巻頭文を書いておられ、懐かしくその文章を読んで帰ってきた。