2022年7月31日日曜日

「先の者」「あとの者」(下)

『しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。』(マルコ10・31)

 マタイ伝にはこの御言葉の後にぶどう園に働く人を雇う譬えが載せてある(20章)。弟子らの心にはまだ『誰か大ならんか』との高ぶりが刈り取られずに残っていたのでこの喩えを語られたように思われる。

 十二のお弟子の中でもヨハネとヤコブはことに野心の強い人で弟子らの中で第一位を占めたいと願ったことは明らかに示されている(マルコ伝10章36節)。彼らがそう考える理由はあった。一つは彼らの母サロメはイエスの母マリヤと親戚の間柄であったようであるし、二つには、彼らは最初にイエスのお弟子になった者である。すなわち『先の者』であった。

 人間の心の敵で最も恐ろしく、最も執着の強いのはこの高ぶりである。多くの人は自分の標準を周囲の人々に置く。そして先とならんことを学ぶ。この心が善く用いられて自己の修養となっている間はさほど醜くもないがひとたびドングリの背比べとなり、さらに一転して自分より優れた人を妬むようになってくると、そこには悪魔の姿が現れてくる。

祈祷
主イエス様、願わくは私たちの心よりこの醜い我執を取り除き給え。人を己に優れりとしつつ、まさにその美点に倣い、報いを求めずして、ただあなたの足跡を慕いて進む者とならせ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著212頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下は昨日のA.B.ブルースの3「先の者があとに、あとの者が先に」と題する文章の後半部分である。

 さて、たとえから、それを説明しようとしていたことばに戻ろう。私たちは、能力、熱心、奉仕の長さにおいて先に立つような人々が報酬に関して最後の地位に落とされることがしばしば起こりやすいことである、と言われているのに気づく。「先の者があとになることが多いのです。」この言明は、うぬぼれが十二弟子のような立場にある人々、すなわち、神の国のために犠牲を払った人々を襲いやすい罪である、と言うことを暗示している。今や、観察によって、これが事実であることがわかる。それはさらに、自分を捨てて労する人々が特に自己義認の罪に陥りやすい状況にある、ということを教えてくれる。これらの状況が何であるかをここで指摘すれば、その深い、そして、多くの人に一見不明瞭なイエスのことばを説明するのに役立つであろう。

 一、キリストのために犠牲を払う人々が自己義認の心情に陥る危険があるのは、自己否定の精神が習慣となっている時ではなく、非常にまれな行為にそれが発揮される時である。このような場合、キリスト者は非常時に臨んでいつもの精神状態をはるかに越える霊的な高みに引き上げられる。それで、犠牲を払った時にはキリスト者にふさわしく振舞ったかもしれないが、老兵が彼の戦いを振り返るように、後になって自分たちの立派な行為に自己陶酔しがちである。そして、ペテロのようにすべてを捨てたことを誇らしげに意識して、「私たちは何がいただけるでしょうか」と問いがちである。それは寒心にたえない心の状態である。霊的高慢と自己陶酔が蔓延する社会は不健全である。万物の道徳律に預言者的洞察を有する方は、将来起こることを予告することができる。自分を先と考える宗教社会は、賜物と恵みにおいて次第に遅れをとるようになる。その人々から見くびられている他の宗教社会が次第に成長して、ついに誰の目にも明らかに両者の地位が逆転するまでになる。

 二、神の国のために犠牲を払う人々の精神に大きな堕落の危険が臨むのは、ある特定の種類の奉仕が非常に需要度が高く、それゆえ特別に高い評価を受けるような時である。一例として、迫害の時代に激しい肉体的苦痛と死を忍耐することを取り上げよう。苦難を受けた初期の数世紀の教会において、殉教者や迫害に屈しなかった信仰者がどれほど熱狂的讃美の対象となったかはよく知られているところである。殉教を遂げた人々は、熱狂した民衆によって神のように祭り上げられた。彼らの死の記念日ーーそれは永遠の世界への彼らの生誕日と呼ばれたーーは厳かに祝われた。そこでは、この世における彼らの行為と苦難が途方もない称賛の調べのうちに熱烈な賛美を持って語られた。

 キリストのために死ぬことはなかったが苦しみを受けた信仰者たちも、試練に遭わない一般のキリスト者たちとははっきり区別されて、上に位する者として尊敬された。彼らは聖人であり、その頭上には栄光の光輪が輝いていた。彼らは神に並ぶ権能を有し、正規の教会指導者たちよりも大きな権威を持って、つないだり解いたりできると信じられていた。堕落した人々は、彼らからの赦免を熱心に求めた。この聖人たちが司式する聖餐式に列席を許されることは、罪人たちが教会の交わりに復帰してもよい門戸開放と見なされた。彼らが罪を犯した者たちに「安らかに行け」と言っただけで、司教たちもその罪人たちを受け入れなければならなかった。司教たちも一般民衆と一緒になって、キリストのために苦しみを受けた人々に偶像崇拝的な忠誠を誓った。司教たちがその信仰者たちを敬愛しほめそやしたのは、ある程度は正真な称賛からであったが、ある程度は政策的なものでもあった。つまり、ほかの人々を彼らの模範に倣うように勧め、苦難の時代に必要とされる剛毅の徳を養うためであった。

 教会におけるこうした心理状態が、真理のために苦難に耐えた人々の魂を、熱狂、虚栄、霊的な高慢、鉄面皮に誘い込む大きな危険をはらんでいたことは明白である。彼らはみな決して誘惑を卒業していたのではない。多くの人は、彼らが受ける称賛を彼らにふさわしい者と考え、彼らを特別に偉大な人物と見なした。その勇敢な行為を将軍から称賛された兵士たちは、まるで自分が主人であるかのように振舞い始めた。例えば、特別な犯罪者だった人に、彼を過大にたたえてこんな手紙を書くまでになった。「すべての篤信者から司教キプリアヌスへ。このことを知ってほしい。われわれは、あなたがその行為についてーーすなわち、彼らが罪を犯してからどのように振舞ったかーー報告したすべての人々に平安を授けた。われわれは、これらの賜物があなたから他の司教たちにも伝えられるように願っている。われわれは聖なる殉教者とともに、あなたが平安を保ち続けられるように祈る。」

 こうして、「先の者があとになることが多いのです」ということばは、この篤信者たちにおいて成就した。彼らは真理のために苦しむことや神聖なることの名声では先に立っていたが、人の心を探られる方〔神〕の審判ではあとになった。彼らはその体を打たれ、不具にされ、焼かれるために明け渡した。しかし、それはほとんど無益に等しかったのである。

 三、先の者があとになる危険は、自己否定が手段化され、キリストのためではなく、自分自身のために禁欲的になされる時である。自己否定の量に関しては、厳格な禁欲主義者に第一位の座が与えられることを誰も否定しないだろう。しかし、彼が真の霊的価値において、それゆえ神の国において第一位を占める資格があるかどうかは、さらに議論の余地がある。

 自我を捨てるという根本的な事柄に関しても、彼は多分、先ではなくあとになろう。禁欲主義者の自己否定は、巧妙な方法での強烈な自己主張である。真のキリスト者の自己犠牲は、自分自身のためではなく、キリストのために、また、犠牲なしに真理を守ることができない時には真理のために受ける苦難や喪失を意味する。ところが、禁欲主義者の自己否定はそのようなものではない。それは、すべて自分のため、彼自身の霊的利益と信用のために耐えた苦行である。彼が自己否定を実践するのは、お金をためたい一心であらゆる贅沢をやめ、生活必需品までケチケチする守銭奴に似ている。その守銭奴のように、彼は自分が富んでいると考えている。だが、二人とも同じように貧しいのである。守銭奴は、多くの富がありながら、楽しむべき日々の必需品と引き換えに貨幣を手放すことができず、禁欲主義者の場合は、いわゆる難行苦行なる「善行」という彼らの貨幣が偽物で、天の御国において通用しないからである。自分の魂を救うべくなされた彼の労苦は、ガラクタが焼き尽くされる時、その正しさが判明するだろう。もし彼が救われるとしても、それは火の中をくぐるようにしてであろう。

 さて、先の者があとになる危険性のある三種類の場合をちょっと思い返すと、「多いのです」ということばがおおげさでないことがわかる。というのも、信仰を告白するキリスト者によってなされるわざのいかに多くが、これらの危険性のいずれかに属していることか考えてみよ。時たまの突発的な努力、宗教界でもてはやされて尊敬されている慈善行為、さらにまた、働きへの関心より、行為者者自身の宗教上の利益に関係してなされる善行、多くの者が神のぶどう園の働きに招かれる。また、多くの者がその働きに従事する。しかし、選ばれる者は少ない。選り抜きの働き人は少ない。イエスの教えの精神によって神のために働く者は少ない。

 そのような働き人が少ないと言っても、幾らかはいる。イエスは、先の者がすべてあとになり、あとの者がすべて先になる、とは言われていない。イエスが言われたのは、そういう場合が多い、ということである。どちらにも多数の例外がある。一日中労苦と暑さを辛抱した者全部が、金銭ずくで、自己義認的であるのではない。否、主はいつもご自分のぶどう園に立派な働き人の一団を持っておられる。彼らは、もし誇る機会があったならいつでも、その奉仕の長さ、精励、効率を誇ることができたであろうが、いささかも自己満足な思いを抱くことはなく、他の連中よりどれだけ多くもらえるだろうかという打算にふけることもない。

 異教の地へ赴いた献身的な宣教師たち、ルターやカルヴァンやノックスやラティマーのような偉大な改革者たち、最近は減っているが、私たちの時代の優れた人々のことを考えてみるがよい。このような人々が、先にぶどう園に来た労務者のように語ると考えられようか。まさに思いもよらない。生涯を通じて、彼らの思いと奉仕はまことにへりくだっていた。そして、その生涯を閉じる時、彼らには、日中の働きは永遠のいのちという大きな報酬には全く値しない、大変貧しいものに見えたのである。彼らのような先の者が、あとになることはない。

 先の者であとにならない人々がいるなら、もちろん、あとの者で先にならない人々もいるはずである。もしそうでなければーーもし、奉仕の長さ、熱心、献身であとであるのに、ある人には便宜が図られるならーー神の国に混乱をもたらすことになろう。事実、そうなれば怠惰にプレミアムをつけるようなことになり、一日中何もせずに立っていたり、五時ごろまでは悪魔に仕えたりすることを奨励することになりかねない。また、老年になってぶどう園に行き、手足が思うように動かず、体が弱ってふらつく中で、主のために気の抜けた一時間の仕事をすることを奨励するようなものである。そのような士気をくじくような規定は神の国では通用しない。他の事柄が同等なら、より長く、より熱心に仕え、より早く仕事に着手し、より勤勉に働く人ほど、来るべき世でより豊かなものを与えられる。遅れて働き出す人々が恵みのうちに扱われるなら、それは彼らの遅れにもかかわらずであって、遅れたためではない。彼らが長い間怠けてきたことはほめられることではなく、明らかに罪である。またそれは自分は運が良かったと満悦することではなく、深くへりくだるべきことである。自分たちの奉仕の素晴らしさを誇るために多く主に仕えた人々が間違っているとするなら、自分の小さな奉仕を自慢する人はなおさらけしからねことであり、愚かでさえある。先の者でも、誇ったり、自らを義とする正当な理由を持っていないとすれば、あとの者はなおさらである。)

2022年7月30日土曜日

「先の者」「あとの者」(上)

『しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。』(マルコ10・31)

 ペテロは浅はかにも『私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました』と言って献身の方面はすでに済んでこれからは報酬を受ける一方あるのみだと思った。焉んぞ知らん彼は今やっと『何もかも捨てる』道の第一歩についただけであったのである。イエスはそこに注意を与え給うた。

 ペテロよ一切を捨てたのはよい。必ず報酬がある。けれども油断するな。お前より後の者の中により多く一切万事を献げるものが生ずる時に、お前はかえってあとになるかも知れない。否、報酬を第一として目の前に置いている者は必ずあとになる。左様な心を捨てるのが一切を捨てる心の眼目ではないか。

 だから、ただ『わたしのために、また福音のために』一生懸命になるがよい、と。これがペテロ及び私どもに与え給う主の慈悲深いみことばであると思われる。

祈祷
イエス様、あなたの御愛は実に高く深く、私どもをご自身の姿にまで引き上げんとして下さることを感謝致します。どうかあなたが何をも求めずして十字架について下さったように私をもただあなたを愛するが故に一切を献げたいという心を持たせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著211頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。  A.B.ブルースは『十二使徒の訓練』の中で「自己犠牲についての教え」と題して、1、完全への勧め 2、自己犠牲の報酬 3、先の者があとに、あとの者が先に とすでに述べたように、三つに分けて詳述している。その三番目に該当する文章の前半部分を紹介する。

3、先の者があとに、あとの者が先に

 自己犠牲の報酬について述べた後、イエスは、献身的な行為の動機のようなものであっても、すでになされたような行為に見られる自己満足的考えのようなものであっても、恥ずべき思いにふけることから生じる報酬の没収また部分的喪失の危険を示していかれた。イエスはあたかも指を差し上げるようにして、警告的に「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです」と言われた。それから、その奥深い意味を説明するために、マタイの福音書だけがその直後に収録しているたとえを話された。

 その説明は、ある点で説明されるべき事柄よりも難しく、多くの異なる解釈がなされてきた。それでも、このたとえが主に意図するところは充分明らかなように思われる。これは、ある人々が考えているように、誰もが永遠の御国において同じ分け前にあずかることを教えようとしているのではない。そういうことは前後の思想のつながりと合わないだけでなく、真実ではない。また、このたとえは、救いは恵みによるのであって行いによるのではないという偉大な福音的真理を明らかにしようとしているのでもない。説教において、その基本的教理を論じるのは大変結構なことだが。そこに述べられている顕著な思想は次のようなものと思われる。つまり、働きの価値を評価するに当たって、すべての人が仕える神である主は、量ばかりでなく質をも、すなわち、その働きを行なった精神〔霊的状態〕をも考慮に入れられる。

 神の国における働きと報酬という重要な主題に関するイエスの教えの全体を概観すると、この見方の正しいことがわかる。そのことから、両者の関係は公正な法則によって定められていて、気まぐれは完全に排除されているように見える。そのため、もし働きにおいて先の者が報酬においてあとであるなら、どんな場合も、それは相当の理由があってのことである。

 福音書には、この主題に関して全部で三つのたとえがあり、それぞれ異なる考えを述べている。そして、特別に今考察中のたとえの私たちの解釈が正しければ、これら三つのたとえが組み合わさって、それらが関係している主題の完全な見方を提示してくれる。それらはタラントのたとえ、ミナのたとえ、そして私たちがいま扱っている「ぶどう園の労務者」〈別の呼び方もある〉のたとえである。

 これら三つのたとえが異なると同時に相互に補足しあっていることを知るために、働きの価値が決定されるべき原則を心に留めておく必要がある。人々の行いを正しく評価するために、三つのことが考慮されなければならない。すなわち、働いた仕事の量、働く者の能力、そして動機、動機のことは差し当たって考慮に入れないことにしよう。そうすると、能力が等しい時は仕事の量が相対的な価値を決定する。能力が異なる時は、価値を決定すべきものは絶対量ではなく、量と能力の関係である。

 ミナのたとえとタラントのたとえの意図は、それぞれこの二つの命題〔能力が等しい時、及び能力が異なる時の価値決定〕を例証することである。ミナのたとえでは、能力においてはすべて平等で、十人のしもべは一ミナずつ受けている。しかし、仕事の量は異なり、あるしもべは一ミナで十ミナをもうけたのに、別のしもべは一ミナで五ミナをもうけただけである。さて、前述の規定によって、第二のしもべは第一のしもべと同じ報酬を受けるわけにはいかない。なぜなら、彼はやれたかもしれないことをやらなかったからである。したがって、このたとえでは、二人のしもべに与えられる報酬においても、彼らの主人のそれぞれに対する話しかけ方においても、差別が設けられている。第一のしもべは十の町を与えられて、それらを治めるようになる。そして次のような賛辞が添えられる。「よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。」

 一方、第二のしもべは五つの町しか与えられず、さらに注目すべきことに称賛の言葉が省かれている。主人は彼にあっさり、「あなたも五つの町を治めなさい」と言うだけである。彼は幾らかのこと、怠け者に比べればかなりのことをした。それで、彼の奉仕は認められ、それに応じて報いられる。しかし、彼は良い忠実なしもべとは言われていない。称賛が差し控えられたのは、それに値しなかったからである。彼は自分にできることを精一杯にやらなかった。第一のしもべの働きを可能性の基準にすれば、彼は可能なことの半分しかしなかったのである。

 タラントのたとえでは状況が違っている。働いた量〔もうけた額〕が異なるのはミナのたとえと同じである。ただしこの場合は、能力もそれぞれの仕事量に比例して異なっている。それで二人のしもべの間のもうけの割合は、それぞれに与えられたタラントの額と同じである。あるしもべは五タラントを受けて五タラントもうける。別のしもべは二タラントを受けて二タラントもうける。前述の規定によるなら、この二人の働きの価値は等しい。そのように、彼らはこのたとえで描写されている。同じ報酬が二人にそれぞれあてがわれ、二人とも全く同じことばで称賛を受ける。どちらの場合も、主人のことばはこうである。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」

 このように働く能力と働いた量の二つの要素を考慮に入れる時、正当な論拠が得られる。また、この二つの要素を一つにすると、熱心の要素となる。しかし、少なくとも神の国においては、熱心以上のものが考慮されなければならない。この世において、人々はしばしばその動機にかかわりなく、勤勉さのゆえに称賛される。世間の喝采を博すためには、熱心であることさえいつも必要とは限らない。ある人が大きなことや気前よく見えることをすると、人々は、それが彼にとって真に素晴らしいことなのかどうかーー自己犠牲を伴う利他的な行為か、それとも、必ずしも真面目さや献身を示すものでない単なる立派な行為かーーを問うことなく、彼をほめそやすであろう。

 しかし、神がご覧になると、多くの大きいものが非常に小さいものであり、多くの小さいものが非常に大きいものである。なぜなら、神は行為の隠れた源泉である心を見通し、その泉によって流れを判断されるからである。そこに熱心がないなら、量は神にとって無に等しい。また、それがあらゆる虚栄心や利己心からきよめられていないならーー正しい動機という純粋な泉でなければーー熱心も神にとって無に等しい。その熱心はあらゆる肉欲の煙が払いのけられた、天来の献身の純粋な炎でなければならない。卑しい動機はすべてを無効にしてしまう。

 この真理を強調すること、すなわち、行いや犠牲と関連して正しい動機と心情の必要性を説くことこそ、ペレヤでイエスが語られたこのたとえの意図にほかならない。それが教えているのは、正しい精神によってなされた少量の仕事は、どれほど熱心に遂行されたとしても間違った精神でなされた大量の仕事よりも価値がある、ということである。駆引きのない人々によってなされた一時間の仕事は、一日中暑さと苦しみに耐えながらも、その行為がひとりよがりとしか見えない人々によってなされた十二時間の仕事より価値がある。

 訓戒的に言うと、このたとえの教えはこうなる。雇い人のように卑しく計算ずくで働くな。また、パリサイ人のように、報酬を当然の権利と考えて尊大に要求する態度で働くな。せいぜい自分は役に立たないしもべであると考えて、謙遜に働け。利己的な打算に動かされない人々のように惜しみなく働け。物惜しみしない偉大な雇い主〔神〕を信頼する人々のように、あらかじめしっかり契約が結ばれているので、それからあなたが自分を守る必要のない方と彼をみなして、誠実に働け。

 この解釈においては、ぶどう園に最初に来た人々の精神と最後に来た人々の精神とは、それぞれ指摘されてきたようなものであったと考えられている。そして、この仮定は、それぞれの仲間の描かれ方によって正当と認められる。最後に来た人々がどんな精神で働いたかは、彼らが何の契約も取り交わさなかったことから推論できよう。最初に来た人々の気質は、その日の終わりに彼らが口にしたことばから明らかである。彼らは、「この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです」と言った。このことばには、ねたみや嫉妬やうぬぼれが感じられる。そのことばは、この労務者たちがその日の仕事の初めにとった行動と合致している。彼らは決められた報酬額で働くことに同意して、契約を結び、ぶどう園に雇われて来たのである。

 最初に来た人々〔先の者〕と最後に来た人々〔あとの者〕とは、神のしもべであることを告白する者たちの間の二種類の人々を表している。先の者は打算的で、ひとりよがりな人々である。あとの者は謙遜な人々、無私無欲な人々、寛大な人々、誠実な人々である。先の者はヤコブのような人々で、「私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした」と自分で言えるほどに、コツコツと律儀に働くが、自分の利益に敏感で、その信仰においても自分たちに安全な契約をするように取り計らい、偉大なる主の自由な恵みと開放的な気前の良さに信頼しようとしない。あとの者は、彼らの奉仕の遅いことにおいてではなく、その信仰の広く大きいことにおいてアブラハムのような人々である。アブラハムが行き先を知らずに、ただ神が「わたしが示す地へ行きなさい」と言われたことだけを頼りに、父の家を離れたように、彼らは何の契約もせずにぶどう園に入って行く。

 先の者はシモンのような人々で、正義感が強く、尊敬すべきで、模範的であるが、気難しく、単調で、愛情に欠けている。あとの者は石膏のつぼを持った女のようである。彼女たちは長い間、怠惰に、無目的に、罪にまみれて人生を浪費してきたが、ついに、その無益な過去を悔いて激しい涙にくれながら、真面目に生活を始める。そして、身も心もささげて主なる救い主に仕えることによって、失われた時を取り戻そうと努める。

 さらに、先の者は父の家にとどまっている兄のような人々である。彼らは父の戒めに背くことはないが、そむく者たちに冷淡である。あとの者は放蕩息子のようである。彼らは父の家を出て、自分の財産を奔放な生活に使い果たす。しかし、ついに我に返ると、「立って、父のところに行こう」と決心し、父に会うや「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりのようにしてください」と絶叫するのである。

 このように特色を異にする二種類の人々は、このたとえにおいて、まさに彼らがそうあるべきように取り扱われている。あとの者が先になり、先の者があとになっている。あとの者は、そうすることが主人の喜びであることを示すように、先に支払いを受ける。しかも彼らはかなり歩のいい賃金をもらっている。なぜなら、一時間の仕事に対して十二時間働いた人々と同じ額の賃金を受け取るのであれば、彼らは一日で十二日分の賃金をもらうことになるからである。彼らが受けた扱いは、まさに、父に祝宴をもって迎えられた放蕩息子のようであった。「先の者」は、その奉仕が認められていたにもかかわらず、友だちと楽しむために子山羊一匹もくれなかったと父に不平を言った兄のように扱われている。自分を雇い人の一人にしか値しないと考える人々は、息子として遇せられる。自分を最も価値ある者と考える人々は、雇い人として冷遇される。※実に類稀なるメッセージである、明日は後半の紹介である。)

2022年7月29日金曜日

自己犠牲の報酬(3)

その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け(マルコ10・30)

 キリストは来世を説かれた。これは動かすことが出来ぬ。最高の理想の実現を確実に握られたのである。同時に『今のこの時代に』大きな祝福がくることを断言した。キリストを信じキリストに従うことは私たちの現在の所有を百倍にすることになるのだと言うのである。こんな良い商売が他にあるだろうか。一躍百倍の所有となる。

 だがイエスは真面目で言っているのである。物の価値にはその外面的価値と内面的価値とがある。家にも畑にもこの二様の価値があるか、ことに父母、妻子、兄弟に至ってはその外面的価値よりもその内面的価値の方が重いのである。キリストに一切を献げることによって、これらすべてのものがその所有者に対して本当の価値を生じてくる。

 キリストを信ずることによって、逆境に立たされ、月給が一割ほど減ぜられたけれども家計はかえって楽になったと言っている人がある。一旦父母に捨てられたけれども、ついに父母を信仰に導いて百倍の喜びにいる人もある。『『モーセは、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富』であることを経験した(ヘブル11章26節)。

祈祷
主イエス様、あなたは奪われます。あなたの愛はたびたび私の所有を奪われます。しかしあなたが奪われるときは必ず百倍のものを与えんがためであることを感謝申し上げます。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著207頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下はA.B.ブルースの『十二使徒の訓練』中の昨日の文章の続きである。 

 ではいったい、そのあるものとは何か。それは自己犠牲の報酬として十二弟子に贈られる、神の国における神の栄光、誉れ、力である。それは部分的にはこの世において、完全には来るべき世において贈られる。この世でのことに関する限り、それは、彼らがキリスト教会の使徒及び創設者として、イエスの仲間としての法的権限を行使したことによって証明された。その目的のために主に訓練を受けた最初の福音の宣教者である十二使徒は、彼ら以後誰も務め得なかった教会における重要な地位を占めた。天の御国の鍵が彼らの手に渡された。彼らは、その上に教会が打ち立てられるべき土台石であった。いわば彼らは、キリストを信じる信仰を告白したすべての人々を受け入れる聖なる国、真の神のイスラエルの十二部族を裁き、導き、治める監督の座に着いたのである。

 十二使徒は、彼らの生きている間、そのような最高の影響力を及ぼした。いや、今なお及ぼし続けている。彼らのことばはかつてそうであったばかりでなく、今も法〔神の命令〕である。彼らの例に倣うことは、すべての時代にわたって義務づけられると見なされてきた。主の深いことばの霊感された解説である彼らの手紙から、教会はその信条の中に取り入れられた教理体系を引き出した。現存する彼らの文書はすべて聖なる正典〔聖書〕の一部となり、その記されたすべてのことばは信者たちによって「神のことば」と見なされている。確かにここには、充分に王の尊厳を持った力と権威がある。世間の目を引くような王者の装いには欠けているが、ここには至高の実体がある。イエスの使徒たちは王子の服は着ていなかったが、本当に王子たちであった。そして彼らは、一つの部隊を治めることは愚か、イスラエルの王国を割り当てられるよりもはるかに広範な支配を行うように定められていたのである。

 十二弟子への約束は、地上の教会に置けるだけでなく、天の教会における彼らの地位にも関係していることは疑いない。彼らが永遠の御国でどうなるかは、私たち自身がどうなるかわからないと同様よくわからない。概して天についての私たちの知識は大変ぼんやりとしている。しかしながら、私たちは明らかな聖書の主張のゆえに、人々は地上においてと同じように天においても死んだ状態にはないということを信じる。急進主義は、この世の安定した社会の法則でないように、天の御国の法則ではない。栄光の御国は、完成された恵みの国、地上で開始された新生が最終の完全な発達段階に至った国にほかならない。しかし、不完全な状態での新生には、人々を霊的生活の支配にある社会に組み入れようとするもくろみがある。御国に入れられる者は、すべてキリスト・イエスにあって新しく造られた者である。そして、霊的な人として最高の背丈に達した者たちには、最高の地位が割り当てられる。

 この理想は、完全に実現されるには至っていない。その実現を目指して生まれた「見える教会」は、外見上、理想の神の都からは期待外れで終わっている。常にそうだった。キリストのために何も捨てたことのない偽使徒たちが、栄光の座を獲得するために、野心、利己心、世的な知恵、へつらいなどをほしいままにすることがしばしばあった。それゆえ、私たちはなお、見える教会が到底及ばない、私たちの思いをはるかに越える真の神の都を、あこがれの眼で待ち望んでいるのである。その理想の国では、完全な道徳秩序が保たれているであろう。そこでは、各人がそれぞれにふさわしい本当の地位を与えられる。つまらない人物が高い地位に着くことはなく、優れた人物が妨害を受けたり、低い身分や無名のままでいることはない。最も優れた人は、たといいま最低の扱いを受けていたとしても、最も高くされる。「誰も誤って称賛されたり、へつらいで祭り上げられたりすることのない所には、真の栄光がある。そこには、それを受けるにふさわしい者が誰も拒まれず、ふさわしくない者には誰にも与えられない、真の名誉がある。ふさわしくない者が幾ら熱望してもそれが得られず、そこには、ふさわしいものだけしか入ることが許されない。」

 その神の国における最も優れた人々の中に、人の子〔イエス〕と運命を共にし、彼の放浪と試みに同行した十二人も含まれている。おそらく天には、知性やその他の点で彼らに勝る者が大勢いるだろう。しかし、最高の地位の人々もその誉れある地位を喜んで彼らに譲るであろう。彼らはイエスを信じた最初の人々また悲しみの子〔イエス〕の親しい友として、その御名を諸国民に伝える喜びの器であり、ある意味で、すべての信じる者に天の御国を開放したのである。

 キリストのために苦しみを受ける白衣の殉教者、信仰者たちの指導者として、使徒たちに与えられた約束の意味はこのようなものであると考える。次に、すべての忠実なキリスト者に差別なく与えられた約束に注目したい。マルコの福音書には次のように書かれている。「わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」

 この約束も、十二弟子への特別な約束と同じく二重の意味がある。神を第一にすることは、この世でも来るべき世でも有益であると言われている。キリストのために犠牲を払う人々は、来るべき世には永遠のいのちを受ける。この世にあっては、彼らは迫害と共に犠牲となった分の百倍を受ける。前者の永遠のいのちについては、輝かしい来世において保証された最低の報酬と理解すべきである。すべての信仰者は最低限それを得る。その最低のものとは何と最高のものであろう。どうあっても永遠のいのちのようなものを得られることが、キリストのことばに保証されているとは何と幸いなことであろうか。私たちは真理と良心のために生きる者らしく振舞い、信仰の戦いを立派に戦いたい。そうすることによって、私たちはそのような栄冠を手にすることができる。「素晴らしい天来の希望は、どんな試練にも耐えさせてくれる。」

 至福の朽ちないいのちの栄冠を得るのであれば、私たちは、死に至るまで忠実であるということを主の側の不当な要求と考えるべきではない。このようなことのために犠牲となった生命は、大洋に注ぐ川のようであり、真昼のさんさんと輝く光の中で消えてしまった明けの明星のようである。私たちに約束されたこの幸いな希望をしっかりと掴み、その不思議な力によって信仰の勇者に造り変えられたいものである。

 今の私たちは、来るべきいのちをかすかに信じているだけである。私たちの目はかすんでいて、はるかかなたの国を見ることができない。ある人々は、私たちがイエスの約束された将来の報酬なしに行うことができ、無神論主義に立って英雄を演じることができると考えるほど理性的になった。そのとおりかどうかまだわからない。殉教者たちの記録は、永遠のいのちを本気に信じた人々が何をやり遂げてきたかを私たちに告げている。今日に至るまで、私たちは、不信仰者によってなされたいかなる英雄的行為も犠牲も聞いていない。懐疑主義の殉教史はまだ書かれたことがない。

 来世にに関するキリストの約束の方は、信じて受けなければならない。この世に関する方は、見て確かめることが許されている。それで、次のような質問が充分考えられる。実際のところ、犠牲がこの世で同様に百倍ーー正確には幾倍かーーのもので報いられるとは本当なのか。この質問に対して、こう答えることができよう。

 第一に、もし私たちが個人の生涯に見方を限定せず、後の世代をも含めて見るなら、その約束が変わらず有効であることがわかるだろう。摂理がその結果を見るだけの時間を与えられた時、柔和な人々は、少なくとも彼らの相続人や後継者の時代までには地を相続し、豊かな平和を楽しむことになる。迫害の理由もついに世の尊敬を博すようになり、それが与え得る豊かな報酬をそこから受けるのである。その時、預言者のことばは成就する。「あなたが子を(迫害者の手で)失って後に生まれた子らが、再びあなたの耳に言おう。『この場所は、私には狭すぎる。私が住めるように、場所をあけてもらいたい。』と。」「目を上げて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。海の富はあなたのところに移され、国々の財宝はあなたのものとなるからだ。あなたは国々の乳を吸い、王たちの乳房を吸う。あなたは、わたしが、あなたを救う主、あなたを贖うヤコブの全能者であることを知る。わたしは青銅の代わりに金を運び入れ、鉄の代わりに銀、木の代わりに青銅、石の代わりに鉄を運び入れ、平和をあなたの管理者とし、義をあなたの監督者とする。」

 これらの預言の約束は、突飛なことのように思われるが、教会史において再三再四成就されてきたのである。初期の時代には、異教徒にあおり立てられた迫害の火の後、コンスタンディヌス帝の治世に古めかしい迷信や偶像礼拝がついに絶えた。プロテスタントの英国においては、かつてキリストのためにすべてを失う覚悟をし、事実多くのものを失った人々のいたことが知られているが、今日、英国は海の女王であり、全世界の富の継承者である。〔訳注・これは前世紀の英国のことで、現在の英国には必ずしも当てはまらない〕。大西洋を越えた新大陸には、富と力で英国に匹敵する強大国〔アメリカ〕が生まれた。それは、祖国よりも宗教的自由を愛し、未踏の大陸の荒野に専制政治からの避け所を求めた、少数の亡命のピューリタンの群れから成長した国である。

 それでも、厳密に字句通りに受け止めるなら、キリストの約束はすべての場合に有効なのではないと認めざるを得ない。多くの神のしもべたちは、世の人々が悲惨な運命と見たであろうような生涯を送った。では、彼らの場合、約束は全く無効になったのであろうか。否である。なぜなら、第二に、その約束が成就される道は一つではなく、それ以上に多くの道があるからである。例えば、祝福は、それらを全く放棄することによって、その外面的大きさは変わることはなくとも百倍に増し加えられるだろう。真理のために払われた犠牲、私たちがキリストのために喜んで放棄したことは何であれ、その瞬間から、その価値は無限に増大するようになる。父や母、またこの世の友は、私たちが「キリストが第一で、これらのものは第二でなければならない」ということを学び取った時、言いようもなく愛すべき存在となる。アブラハムがイサクを死から取り戻した時、イサクはアブラハムにとって百人の息子に値する存在となった。

 また別の面から例証するならば、獄中で、家に残してきたかわいそうな盲目の娘を思うジョン・バンヤンを考えてみよ。彼はその比類なき著書『恩寵溢る』の中で、このように彼の心情を吐露している。「不憫な子よ。おまえはこの世で何と悲しい目に遭うことだろう!私はそう思った。私は風がおまえに吹きつけるのさえがまんできないのに、おまえは打ち叩かれ、物乞いをし、飢えと寒さと裸、その他幾千の災難を受けなければならない。しかしなお、私はこう思った。おまえをとことん置き去りにしても、おまえをすべて神に任さなければならないと。ああ!私は妻子の頭上に家を取り壊そうとした〔妻子の自滅を図った〕人のようであった。しかし私は、神の箱を他国へ運ぶために子牛を残して行った二頭の乳牛のことを考えた。」

 もし、物事を楽しむ能力が本当の意味で所有の尺度だとしたら、また実際そうなのであるが、ここで考えられている事例では、妻子を捨てることはそれらを百倍に増やすことであった。そして、放棄された物の増大された価値のうちに、犠牲と迫害に対する充分な慰謝料を見出すことができるのである。

 ベッドフォードの囚人〔バンヤン〕の独白はまさに自然の情愛を吐露した詩である。乳牛への言及には何と哀感がこもっていることか。何という優しい情感の深さか。そのように感受する力が自己犠牲の報酬である。そのように愛する力が、キリストのために自分の親族を「憎む」ことの報酬である。自然の情愛を不忠実の口実にする人々の中では、そのような愛は見られない。彼らは「私は妻や家族を養わなければなりません」ということが、神の国のために不忠実なことの充分な言い訳と考えている。

 不当の霊的解釈をしなければ、「百倍」という強調表現には妥当な意味が付せられ得ることを理解できよう。そのように注意して見ると、なぜ、「迫害」ということばが障害どころかまるで利益の一部であるかのように、その記事の中に投げ込まれているかも深く察知できよう。実は、百倍になるのは、迫害にもかかわらずではなく、大部分迫害のゆえになるのである。迫害は犠牲にされたものを味つけする塩であり、それらにうま味を添える調味料である。あるいは算術的に言うと、迫害は、量においてではなく価値においては、神に明け渡された地上の祝福を百倍にする因子である。

 キリストのために犠牲を払う人々に備えられた報酬とは、そのようなものである。それらの犠牲は涙とともに蒔かれた種にすぎないが、やがてそれから喜びのうちに豊かに刈り取る。では、犠牲を払わず、戦いにおいて傷を負わなかった者たちはどうなのか。その願いがなかったからではなく、機会がなかったことに起因するのであれば、彼らも報酬の分け前にあずかるであろう。「戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていたものへの分け前も同じだ。共に同じく分け合わなければならない」というダビデのおきては、神の国においても有効である。ただし、彼らが荷物のそばにとどまったのは臆病からでも、怠惰からでも、わがままからでもないことを理解しなければならない。困難に身を任せたり、危険を冒したりするすることを避けて、あるいは神の国のために罪の欲望を捨てることもしないでこのようにする者たちは、終わりの日にそこに席を見つけることを期待できない。)


2022年7月28日木曜日

自己犠牲の報酬(2)

イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父。子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。・・・後の世では永遠のいのちを受けます。」(マルコ10・29、30)

 『まことに、あなたがたに告げます』とイエスは特に真剣になって言われた。そうだ『まことに』である。これを疑っては大変なことだ。イエスの真剣を疑うことになる。『わたしのために』と大きく切り出された。こんな大きな要求を人間が正気でなし得るであろうか。最高最大の愛と奉仕とを要求したイエスは神でなければ狂人である。

 たった今いかなる場合にも妻を離縁してはならぬと言った言葉の乾かぬうちに『わたしのため』ならばこれをも捨てよと言う。父母も子も財産も捨てよと言う。実に突飛な要求とも見える。父母も兄弟も何もかも捨ててわたしと共に走れ、との要求はこの世においては愛人の要求か帝王の命令の他にはあるまい。イエスはこの心を私たちに要求される。この心があってこそ父母兄弟妻子に対して真実に尽くすことができる。

祈祷
私のために一切を捨てて下さった主イエス様、願わくは、私をしてあなたの十字架の愛に感激し、私をして一切をあなたに献げることを喜びとする者とさせて下さい。私たちは一切をあなたに献げることによって、父母兄弟妻子に対する一切の義務を真実に履行する者とならせて下さい。アーメン。

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著207頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下は、先ず、David Smithの昨日の 12「主の答弁」に引き続く文章である。 

13 「ぶどう園で働く者の喩え」

 イエスは戒めを徐に挿入しつつ『先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです』と加えられた。而してこの警句の註解として次の喩えを語られた。すなわちある主人がある日早天市場に赴いて一日一デナリの普通の賃金でそのぶどう園に働く者を雇い入れた。また日が出て三時間を過ぎた九時ごろに、市場に空しく立つ者を発見して、彼らをまたぶどう園に送った。この時には賃金については特別に協定せず、ただ全額を払う約束であった。彼らは職を得て喜んでこれに応じた。彼はかくして十二時ごろと、また三時ごろに同じく人を雇い入れた、五時ごろすでに労作の時間は一時間を余すに過ぎないころ、彼は再び市場を訪ねて、また職のない者を雇い入れた。彼らは労働者として最も劣等な者どもで、長い日を空しく立って他人の雇われて行くのを、眺めながら順を待ったけれども誰も傭手が見えなかった彼らの憐れな有様がこの農業家の心を曳いた。『あなたがたもぶどう園に行きなさい』と彼は賃金のことを眼中に置かずに言った。彼らは即刻快活にこれに従った。彼の好意に信頼していくらでも儲ける機会のあるのを喜んだからである。

 六時となって、その日の仕事を終わったとき主人は前後に雇って来た者を呼んでこれに始めのものと共に賃金を払えと会計に命じた。彼らはわずかに一時間働いたのみで、しかもその仕事も貧弱であったにかかわらずデナリ一枚を与えられた。はじめに雇われた者はさらに多く与えられることと思ったが望みは外れてやはり一デナリ与えられたのみであった。これその約束の賃金であったに相違ないのに彼らはこれを憤った。彼らはみな不平を鳴らしたが、そのうちの一人はデナリを下に置いて、傲然として傍に立つ主人に聞こえよがしに会計に向かって抗議した。『この「のちの者」の働きたるは一時間ばかりなるに終日苦しみを負い、暑さに当たる我らと等しくこれをなせり』と。主人は慰めて『友よ我れ汝に不義をせず、汝と銀一枚の約束を為したるにあらずや、汝のものを取りて往け、我れこの「のちの者」にも汝の如く与うべし、我がものをもって我が思う如くなすは良からずや、我が善によりて汝の目悪しきか』と言った。

①  使徒の雇い人根性を矯正するため

 『かくの如く後のものは先に、先のものはあとになるべし』とイエスは宣うた。この喩えは第一に使徒たちの雇い人根性を矯正せんがためであった、もし彼らが賃金のために働けば賃金は与えられる。しかし畢竟雇い人に過ぎないのである。神はその報賞の如何に関わらず、第一の雇い人らのように、ぶどう園に赴かざるうちに賃金を定むるものにあらず、その正当と認められるに任せて、ただ主人の命に服するもの、すなわち賃金を考えず、主人が彼らを雇ったことを感謝しその慈愛に信頼する『のちの者』の如きを求め給うのである。

② 彼らの傲慢を戒めんがため

 この喩えはさらに弟子たちの傲慢を砕かれる計画からであった。『我れまたこの「のちの者」にも汝の如く与うべし』との一句は『イエスと偕にありし人々』の耳に痛みとはならなかったであろうか。彼らはのちに雇われた者として、聖パウロの使徒たるを否定したのであった。また、主はかつて異邦人を蔑視せず、その事業にこれを招き彼らと、第一時に雇われたユダヤ人との間に何らの相違も認められなかったにかかわらず、これを侮蔑したユダヤ人のキリスト者はこの喩えを思い起こさなかったであろうか。これ教会が使徒の時代にこれを心に留める必要があったと共に、今なお記憶せざるべからざる教訓であって、特に侮蔑せられる者、等閑〈なおざり〉にされる者に温情を有せられる主は賃金によらず、愛情より仕えることを望み、人の事業によらず、その事業に当たる精神を嘉〈よ〉みせられるを学ぶべきである。

 一方、A.B.ブルースは『十二使徒の訓練』の中で「自己犠牲についての教え」と題して、1、完全への勧め 2、自己犠牲の報酬 3、先の者があとに、あとの者が先に と三つに分けて詳述している。その二番目に該当する文章を紹介する。

 富の誘惑についてのイエスの発言は、ほかの弟子たちには勇気をくじかれるようなものに思われたが、ペテロの心には違った影響を与えた。イエスの発言は彼に、自分や兄弟たちの行動を永遠のいのちを求めて来た青年の行動と比較させて、自己満足な思いを抱かせた。彼はひそかに思った。「私たちは、あの青年が出来なかったことーー主が今言われたことによるなら、金持ちには到底出来そうもないことーーをしている。私たちは一切を捨ててイエスにお従いしているのだ。そうすることがかくも困難で、まれなことであれば、非常に価値のあることに違いない」と。その率直な性格から、ペテロは思ったことを口にした。彼は得意気に、「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか」と言った。

 このペテロの質問に対して、イエスは、十二弟子また神のしもべと自任するすべての人にとって激励ともなり警告ともなる返答をされた。まず、ペテロの質問の内容に関して、イエスが力をこめて、彼と兄弟たちに用意されている大きな報酬について述べられた。その報酬は彼らのものだけでなく、神の国のために犠牲を払ったすべての人のものである。次にイエスは、少なくともそのような質問をした動機の一部となった自己満足ないし打算的精神に関して、一つの説明的なたとえによって道徳的非難を加えられた。それは、神の国における報酬が単に犠牲の事実あるいは量によって決定されるのではない、ということを言わんとしている。それらの点で先であった多くの人々が、実際の評価ではあとになるかもしれない。というのは、そのような報酬の算定における本質的要素となるもう一つの構成分子ーーすなわち、正しい動機ーーが欠けているためである。一方、それらの点であとであった者たちが、彼らを鼓舞した価値ある精神のゆえに先に報酬を受けるかもしれない、この連続した二つの答えを考察することにしたい。当面の主題は、神の国における自己犠牲の報酬である。

 これらの報酬に関して行き当たる第一のことは、報酬と払った犠牲との間の全くの不均衡である。十二弟子は漁船と網を捨てた。その彼らが受ける報酬は十二の栄光の座であった。それが何であろうと、誰でも神の国のために何かを捨てるならば、現世では百倍の報いを受け、来るべき世においては永遠のいのちを受けると約束されている。

 この約束は、キリスト者が仕える主の気前のよさを見事に示している。イエスは、イエスに従う者たちの犠牲を軽視し、彼らの栄光を嘲笑することすら何と容易に出来たことだろう。「あなたがたはすべてを捨てました。それで、あなたがたの全財産とは何だったのですか。もし、あの裕福な青年がわたしの勧めに従って財産を手放したのなら、そのことを多少は誇れたでしょう。が、みすぼらしい漁師のあなたがたにとって、その払った犠牲は取り立てて言うほどのものではありません。」

 しかし、そのようなことばがキリストの口から発せられるわけはなかった。キリストは、外見的に小さいものを軽蔑したり、まるでキリストの負担を軽くするようなつもりで彼に対してなされた奉仕をも決してけなすようなことはされなかった。むしろ、ご自分のしもべたちに対して彼らの良いわざを驚くほど過大評価し、そして彼らの奉仕に相応の報いとして、彼らの要求をはるかに越える報酬を約束することによって、ご自分が負い目のある者〔債務者〕になることを好まれた。この時もそのようにされた。弟子たちの捨てた「何もかも」は取るに足りないほど小さいものであったが、それでもキリストは、それが彼らのすべてであったことを覚えておられた。そして真剣に「まことに」と大変優しく感謝をこめて、あたかも彼らが正当に手にいれたかのように栄光の座を約束されたのである。

 これらの重大な高価な約束が信じられるなら、犠牲を払うことは容易だったであろう。栄光の座に着けるのに漁船を手放さない者がいるだろうか。五パーセント、いや百パーセントはおろか百倍もの利益をもたらす投資をためらう商人がいるだろうか。

 イエスの与えた約束は、よく考えると、もう一つ別の素晴らしい効力を持っている。その約束は人を謙遜にさせる。その偉大さは人の心を真面目にさせることである。どんな虚栄心の強い人も、自分の良いわざが栄光の座の報酬を受けるに値しようなどと望むことはできない。また、自分の払った犠牲が百倍の報いを受けるべきだとも望めない。こんなふうに、すべての人は神の恵みの負債者をもって甘んじなければならない。したがって、論考などは問題外である。このことは、天の御国の報酬がなぜそれほどまでに大きいかの一つの理由となる。神がその賜物を分け与えられる時、与える方〔神〕に栄光を帰すると同時に、受ける者〔人〕を謙遜にさせるのである。

 それゆえ、普通は報酬どころではない。今一度、十二弟子に特別に約束された報酬について入念に見てみると、表面的にはそれらが誤った期待を抱かせ、助勢しそうになっていることに気づく。それらが実際に何を意味していたとしても、そのとき弟子たちが理解した意味については疑いの余地がない。主が「世が改まること」と「十二の栄光の座」について語られたことは、彼らに、外国支配のくびきを脱して復興したイスラエル王国の光景を連想させた。仲たがいしていた十二部族が、イエスの支配下に和解し統一されるのである。民衆の熱狂のうちに、イエスは彼らの英雄的王とされる。そして、イエスの王としての主張を最初に信じ、その初期の活動に参与した弟子たちは、彼らの忠誠に対する報酬として「県知事」となって各部族を治めるのである。

 このような夢想は実現すべきもなかった。そこで、なぜイエスは、それと知りつつそのような根拠のない空想をかき立てそうな言い方をされたのだろうか、と自然に問いたくなる。その答えはこうである。イエスは、幻想を抱かせる危険のあることばで約束を表明する以外に、弟子たちに希望を与えるというご自分の望む目的を達することができなかったのである。あらゆる誤解の可能性を未然に防ぐ選び抜かれたことばは、何の感化も与えることができなかったに違いない。人の心をとらえる約束は、七色に輝き、見た目にもはっきりした虹のようでなくてはならない。

 そのことは、今考察中の約束だけでなく、聖書また自然界に見られるすべての神の約束に多かれ少なかれ当てはまる。人の心を鼓舞するために、すべての神の約束は、決してそのまま現実化しないが、私たちが想像し、またその時は想像せざるを得ないように約束することによって、ある程度私たちを裏切ることになろう。約束の虹は、私たちがまるで子供のようにいやおうなしに引かれるよう、七色に描かれている。そしてその目的を果たすと消えていく。こうしたことが起こると、私たちはつい「主よ、あなたは私を欺きました」と叫びがちである。しかし、私たちの予期したものと違った形でそれが実現されるのであるが、結局、自分たちは祝福をだまし取られたのではないことがわかる。神の約束は幻想を抱かせるかもしれないが、幻滅を与えることはない。

 目の眩むような栄光の座の約束と関連して十二弟子が味わった経験は以上のようなものだった。彼らは期待したものを得なかったが、類似したあるものを得た。それは、彼らが成熟した霊的判断ができれば、最初に彼らの望んだものよりはるかに素晴らしい、充分なものであった。〈※「続き」は明日以降に引き続いて掲載する〉)

2022年7月27日水曜日

自己犠牲の報酬(1)

ペテロはイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」(マルコ10 ・28)

 たといそれがわずかに『網と舟と』に過ぎなかったとしても一切は一切である。もちろんペテロは反省が足りなかった。自分の動機に不純なもののあることに気がつかなかった。マタイ伝には『私たちには何がいただけるでしょうか。』(19章27節)という語さえ付け加えてある。

 それにもかかわらずイエスは大なる報酬のあるべきことを約束した。現世と来世とにおいて大なる報賞のあるべきことを約束した。先刻の青年が望んだ『永遠のいのち』も約束した。そのほかこの世で受けるめぐみも約束した。

 人間はやはり人間である。弱い人間であるから報酬を求めたい心のあることをイエスは知っておられた。然り、知って同情されたのである。彼は冷たい哲学者倫理学者ではなかった。しかし現世における報酬は『迫害の中で受け』と言い給うた。これは実に興味深いお言葉である。ペテロははるか後になって解ったであろう。

祈祷
迫害と共に百倍の恵みを与え給う主よ、あなたは私たちの弱さを憐み私たちの低級なるをも受け入れて、私たちのために大なる報賞を約束し給うことを感謝申し上げます。ただ私たちをして喜んで『迫害の中で』これを受ける用意をさせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著208頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下は昨日のクレッツマンの文章の続きである。極めて平易に書かれているが、含蓄のある言葉である。クレッツマンの『聖書の黙想』よりの引用は過去7/19、7/20、7/21、7/22 、7/26と5回細切れ的に紹介しているが今日の個所が最終部分である。

 いつでも遠慮のないペテロはここでも、きっと、こんな言葉を返して、主を驚かせたものに違いない。
「でも、私たちは何もかも、みんな手放して、それから、あなたに従ったのですよ」と。
 彼は自分や仲間の弟子たちがしたことの値打ちを認めてもらって、報いられるように、危うく要求しかけたのではなかっただろうか。思いやり深くも、イエスはこの点には立ち入ろうとなさらず、ただ、彼らが信仰をもって行ったことは軽んじられるものではないと語って彼らを納得させた。

 主と福音のみことばのために、すべてを投げ打つならば、主の限りない恵みによって、この世においても、来るべき世においても、百倍もの報いを得るだろう。しかし、このように主に仕える際には、迫害は当然予期しなければならないものであること、それでも、なお、忠実でなければならないこと、を主は私たちに思い起こされる。それは「多くの先のものが後になり、後のものが先になる」からだ。身を処するに高慢であることは私たちからすべてを失わせることになるだろう。が、私たちの後ろから謙虚につき従う者は、ついに先んじて、私たちの頭に立つだろう。

※以上、クレッツマンはマルコ10・17〜31をひとまとめにして「キリストにすべてを負っているわたしたち」と題して述べているが、その冒頭部で次のように述べているのでこの際補っておく。

 私たちの犯している一つの根本的な誤りは、キリストに奉仕する場合、あたかも、キリストに恩恵を施しているかのように、振舞うことである。私たちは恩恵というものが、ひとりキリストの側にしかないのだということを忘れている。キリストは私たちに恵みを賜うが、私たちが金銭であれ、時間であれ、才能であれ、何かをもって、キリストに仕えることが許されているならば、もうそれだけで、すでに十分、特権を授けられたことになるのだ。そして、私たちが仕える場合でさえ、キリストは恵みという報酬を支払わずには、私たちから何ものも受けようとはなさらないおかたである以上、私たちは永久にキリストに対して負債を負い、永遠の感謝という絆によって繋がれているのである。

 一方、David Smithは『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』の中の38章 ヨルダン対岸のベタニヤへ隠退で前回の 11 「富む者が神の国にはいるのはむずかしい」  に引き続いて次のように述べる。

12 「ペテロの質問」

 ゆえにイエスのみことばに彼らは驚駭したのであった。彼らは天国における富貴を夢見ているのに、イエスは富めるものは天国に入ること難しと仰せられる。この宣告は彼らには宛然葬式の鐘の如くに響いたのであった。彼らの犠牲も畢竟何の報賞もなかったのであろうか。彼らが信任をもって認められたその報酬はついにその手から奪取せられるのか。彼らをしてその所有を擲ち、家もなき人の子と運命を共にせしめんと彼らに慫慂したその大望も、ついに一夢に過ぎなかったであろうか。十二使徒の代言者ペテロは彼らの阻喪の声となって叫んだ。『私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。』と彼は若き司と使徒らとを比較して尋ねた。

 これに対するイエスの答えは如何。光栄と報酬を求むる心より神は仕える雇い人根性を弟子たちの心から粉砕し尽くす計画をもって、ある時イエスは厳格な喩えを語られた。『あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、「さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。」としもべに言うでしょうか。かえって「私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事の済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。」と言わないでしょうか。しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみなしてしまったら、「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。」と言いなさい。』〈ルカ17・7〜10 〉と。

 事実神はその民に対してかくの如き取り扱いはされないのである。神は人を奴隷と呼ばず、子と称せられる。神はおびただしき報賞をもって彼らの貧弱な奉仕に報い、その愛に応ぜられるのである。しかも人間の方からはこの喩えの如き態度を取らねばならないのである。彼らは神の奴隷である。尊き価値をもって買われたものであって、その慈愛は彼らをつなぐのである。彼らは到底償却すべからざる負債を有する者で、彼らが喜んでこれを認識し、これを心に留めて、その最大極度の努力をしてもなお無益の奴隷に過ぎない。かくしてその千倍の努力をしてもなお負債者たるものである。

12 「主の答弁」

 イエスはペテロの『私たちには何がいただけるでしょうか。』との質問に対してかく答えられたのであった。しかし、その弟子たちの驚き惑うによりて受けられる苦痛を自ら戒められるためでもあった。イエスは『私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました』とのその使徒たちの抗議にも喜ぶことが出来なかった。他の人々には知らずイエスにはこれが愚かな自負と思われたのである。何物をイエスのために捨てたか。土地にあらず、金銭にあらず、ただ生活の苦労と貧苦と、湖辺の廬と、その網、その小舟、その漁夫の職であった。世間から見ては弟子の捨てたものは決して多いものではなかった。しかしそれは彼らの財産全部であって、イエスは彼らの犠牲としたところを軽しとはせられなかった。

 イエスは大いなる憐憫と温情とをもって答えを与え、確実な恩寵溢れる教えを授けられた。すなわち彼らは決してその報賞を失わない。彼らはその捨てたところをことごとく報いられるのみならず、これに勝る報賞は与えられるのである。彼らが夢見ている想像を藉りて、その驚くべき御顔に彼らを凝視しつつ『まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者は全て、その幾倍をも受け、また永遠のいのちを受け継ぎます』と宣うた。而してこの約束は彼らが待望せる以外の方法を持って豊かに遂げられたのであった。彼らが教会の多数にして神聖な兄弟も交際を結ぶに及んで領土にあらず、黄金にあらず、義と平和と喜びとの聖霊の価高き財産を嗣いだのであった。)

2022年7月26日火曜日

富の誘惑に勝たしめて下さい

イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。・・・ラクダが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」・・・イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」(マルコ10・24、27)

 年齢ではイエスと弟子らと大した相違はなかった。しかし、イエスは彼らの無邪気と無知とを憐んで誠に小さい子供のように思われた。巨人と常人との差である。否、神の子と罪人との差である。

 主は私どもの無知と無能とを軽蔑し給うことなくいつも憐みの御心をもって『子たちよ』と呼んで下さるのである。それのみではない。私どもにはラクダの針の穴を通るほど困難なあるいは不可能なことであっても神はその全能の御手を挙げて私どもを助けて下さるというのである。だから普通人の不可能も神を信ずる者には可能となる。

 富と戦うのは天来の援助なき人間には不能である。それほど恐るべき力である。心してよくこれを用い、これに用いられぬようにすべきである。富は善きしもべであるが、悪しき主人であると言われているではないか。

祈祷
主イエス様、願わくは、私たちにあなたの力を貸してよく富の誘惑に勝たしめて下さい。富が私の主とならないで、私のしもべとしてあなたのために用いることができるようにして下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著207頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 引き続いて、クレッツマンの『聖書の黙想』から以下引用する。

 イエスはその思うところを次のように、はっきりと、弟子たちに示された。
ーー富を持つことには、何も悪いことはないのだ。富も、また、神からの賜物であるから。ところが、困ったことには、私たちは神のみを信ずべきであるにもかかわらず、富を信ずる者がかくばかり多くいる。その果てには、彼らは神を失い、神の国をも失ってしまう。富は彼らが神の国へ入ることを妨げるのだ。富める者が神の国へ入ることよりは、ラクダが針の穴を通ることの方がずっと容易である、と主は強調された。

 弟子たちはますます驚き、どうしたら、こんな情況の下で救われることができるのだろうかと互いにいぶかり合った。そこで、主はこの点について、人に不可能なことでも、神には可能である、という事実を彼らに思い起こさせた。実に、神のみがそのあがないの恵みによって富める者をも、貧しい者をも救うことができる。

※以前、ルカの福音書における18・24〜27が中々理解できなかったが、具体的な証として、19・1〜10のザアカイの救いをルカはここに挿入したのではないかと思ったことがある。)

2022年7月25日月曜日

弟子たちは驚いた

イエスは言われた。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」弟子たちは、イエスのことばに驚いた。(マルコ10・23〜24)

 元来ユダヤ人は一般に富ある者を神に祝された者と考えていた。アブラハムからソロモンなどに至るまで富める者が信仰の手本のように扱われていた。ヨブ記はこれに対して大いなる疑問の矢を放ったが、それすら最後に二倍の富が与えられて解決している。

 イエスは在来のこの思想を転倒して『貧しい者は幸いです』と叫び、また富者の足下に置かれた乞食のラザロが天国に入り、富者自身は地獄の火に苦しむと説かれた。が、この新しい思想は容易に弟子らの心に入らなかった。彼らは今もなお在来の富者祝福説に囚われていた。だから驚いたのである。

 私たちの教えられて来た所にも、恒産なき者は恒心なし、とか衣食足って礼節を知る、とか言ったような思想が多分にある。パンを先にする思想は昔のユダヤ人も今の私たちもあまり変わらない。

祈祷
ああ主イエス様、あなたが『貧しい者』を祝し給いてより二千年にして『富』はますます暴威を振るい、今や神の位に坐せんとしつつあります。願わくは、私たちをしてその欺きに迷わされることなく『世の宝』をあなたの位の前に跪座せしむる者とならせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著206頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。)

2022年7月24日日曜日

イエスの慈眼

イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」(マルコ10・23)

 マルコは他の書にまさりイエスの細かい挙動を描いてある。ことにイエスの眼について最も注意している。21節に『イエスは彼を見つめ』とあり、27節にも『イエスは、彼らをじっと見て』とある。本節では弟子たちを『見回して』とある。

 人の心の奥まで見透す目で殊にユダにご注目なさったのではなかろうか。貧者に施すための貧しい財布の中からさえも盗み掠めていたユダ。わずか三十デナリのために恩師を売らんとするユダ。このイエスの注視に出会った時に悔い改むべきでなかったか。

 イエスの慈眼は彼らに、ユダに、富の欺きから逃れて『天の宝』へと心を転ずべく懇願してはいなかったであろうか。イエスは弟子らを『見回し』た。『イエスは、彼らをじっと見』た。同じ慈眼で私どもに目をとめ、何と囁いておられるであろうか。

祈祷
主イエス様、あなたは私たちを見回されます。あなたは私たちに目をとめなさいます。その目は私たちに懇願し私たちに囁き、私たちがこの世の宝を、天の宝に兌換するようにおすすめになります。主なる神様、私をして、その囁きに従う者とさせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著205頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 以下はクレッツマンの『聖書の黙想』の短文である。

 深い憂いと悲しみの心をこめて、主は弟子たちを見まわされ、富める者が神の国へ入ることはどんなにむずかしいかという事実に彼らの目を向けさせた。弟子たちは主のことばに意外の念を持った。私たちの中の大多数の者同様に彼らも、また、富むことを文句なしに利得となることだと考えていたからである。

 なお、David Smithは『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』の中の38章 ヨルダン対岸のベタニヤへ隠退で10 「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」 に引き続いて 11 「富む者が神の国にはいるのはむずかしい という題名で次のように述べる。

 若い司は頭を垂れ、悄然として『最大不覚の拒絶』を為して退去したとき、イエスは未だかつて道徳上古来聞き及ばざる峻厳なみことばを授けられた。『富む者が神の国にはいるのはむずかしい』と。なお驚く弟子に対し、神の国を拒む性質を挙げ、一般に行われる諺に一層力をこめて引用しつつその断定を繰り返された。
〈十二使徒の驚駭〉
曰く『子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、ラクダが針の穴を通るほうがもっとやさしい』と。霹靂〈へきれき〉の頭上に落下した如く弟子たちは驚駭〈きょうがい〉した。『たいへん驚いた』〈マタイ19・25〉と。これまさに当然である。

 イエスは彼らの執着措く能わざる希望に一撃を加えられたのである。彼らは今にしてなおユダヤ人のメシヤ王国の理想に煩わされているのであった。門出の始めよりして彼らをイエスに随従せしめ、弟子として犠牲と艱苦に耐えしめたものは何であろうか、もちろんイエスに対する欣慕の念がその重きをなしていたには相違ないけれども、なお同時に下劣な動機が潜んでいたのであった。すなわち彼らは富貴を獲得せんと考えた。

 彼らの主がその玉座に上られる際は、彼らは信任の厚きより、主は必ず、この下賎の間にもなおその節を変えなかった彼らに報いられるであろうと考えた。イエスは彼らに名誉を負わしめ、その朝廷において重要の席を与えられることであろう。彼らは土地や幾多の邸宅を与えられ、また彼らはメシヤの王国に対する物質的な時代思想に従い主が世界の国民の審判者として、彼らの首領となり、サンヒドリンのごとき会議を開かれるものとみなしたのであった。この反抗群がり起こったときもなお彼らはその希望を捨てないのであった。彼らはこれを単に終局に赴く一階梯と推論してその主が解すべからざる遅疑を速やかに擲って、驀然〈ばくぜん〉正当なる栄光を輝かし、その偉大なる威勢と統治権とを握られんことを主に迫ったのであった。

12 「ペテロの質問」

 ゆえにイエスのみことばに彼らは驚駭したのであった。彼らは天国における富貴を夢見ているのに、イエスは富めるものは天国に入ること難しと仰せられる。この宣告は彼らには宛然葬式の鐘の如くに響いたのであった。・・・・)

2022年7月23日土曜日

富める青年(5)

『貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。』(マルコ10・21)

 世に甚しい貧富の差のあるのは社会の組織の欠点によることも確かであるが、また個人の実質の差によることも確かである。だからイエスが『あなたがたは、貧しい人々といつもいっしょにいる』(ヨハネ伝12章8節)と言われた通り、社会組織が如何に変わっても貧者はいつの時代にもあるであろう。それのみでない。強者と弱者、優者と劣者、は常に社会に存在するであろう。

 キリストを信ずる者はこの機会を善用して『貧しい人たちに与え』弱き者を助け、劣れる者を導いて行くことができるのである。助けたり助けられたりする美しい社会が出来るのである。自ら貧しかったイエスでさえ貧しい者に施すために財布をユダに預けて置かれた(ヨハネ伝13章29節)。貧しい者を省みることは信者の生活のプログラムの一つでなければならない。

祈祷
神様、私共は自らの貧しい中からもさらに貧しい人を省み、自らの弱い中からもさらに弱い人を思い、さらに劣れる立場にある人を助けたいという心を常に持たせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著204頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 今日はこのところ遠ざかっていたA.B.ブルースの所説を紹介しよう。この文章はすでに紹介した結婚に関する主のお考えhttps://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2022/07/blog-post_11.htmlに対して財産についてはどうお考えになったかを明らかにしている文章である。

 もう一つの自己犠牲ーー財産を捨てることーーは、永遠のいのちについて質問しに来た青年との会見から、イエスと弟子たちの間で注目される主題となった。イエスはこの熱心な質問者の心を読み取り、彼が霊的自由と誠実な心において一致がなく世的な財産を愛しているのを見抜き、次のような助言を与えることによって指導した。「もしあなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」〈マタイ19・21〉。

 すると、その青年は悲しみながら去って行った。彼は永遠のいのちを望みながら、どんな犠牲を払ってもそれを得ようとしなかったからである。この具体例を、イエスは十二弟子を教えるために考察の対象とされた。)

2022年7月22日金曜日

富める青年(4)

「そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。・・・」彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。(マルコ10・22)

 イエスはいつも天を指して『天に宝を積め』と励まし給う。彼は現世主義ではなかった。もちろん現世軽蔑者ではなかったが、来世と現世とを一つに見てことに現世が準備時代であることを常に強調された。現世において私たちが所有する一切の宝(私たちの頭脳の労働も、手足の労働も、私たちの存在それ自身も含むのはもちろんである)は『天に宝を積む』ための準備として与えられたものである。

 これを如何に使用するかによって天における私たちの運命が定まる。されば何一つでも死蔵するのは惜しい。この世だけのために使用してしまうのも惜しい。『みな売り払い』天に貯えるのがよい。しかしこの青年はイエスの御声に応じかねた。天とキリストが鮮明に見えなかったからであろう。『天に宝を積む』とは決して『顔を曇らせ』たり『悲しん』だりすべき響きを持った言葉ではないはずである。犠牲が大きすぎると思ったのであろう。

祈祷
天の父よ、願わくは、私たちに天の栄光を見る目をお与えください。天に宝を積むことが如何に尊貴であるかを悟らせて下さい。そうして喜んでこの世におけるすべてを『売り払う』者とならせて下さい。

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著203頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 短い言葉だが、クレッツマンの昨日の文章の続きを書き写してみる。

 ところが、彼はこの機会をつかむのにふさわしくなかった。「たくさんの資産」を放棄すること、それはあまり過酷な要求だった。彼は悲しげに立ち去って行った。神の国は彼を失っても、何の損失もなかったが、彼にとって、神の国を失うことはすべてを失うことだった。

 それに引き換え、David Smith の昨日に続く言葉は以下の長文だが、これまたクレッツマンの見方と本質的に変わらない。

  これには青年は逡巡した。彼は甚だ富裕であった、この犠牲には辟易したのであった。彼は自ら、永遠のいのちが最高の希望であると信じていた。しかるに絶えず彼が心をかけたさらに大切なものがあったのである。イエスはそれを彼に示された。『 彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った』。

 イエスは甚だ熱心にこの要求を示されたしかしイエスがここで何人にも貧困が弟子たるの条件であると仰せられたと思うのは甚だしき誤解である。イエスは人間に接せられるには熟練する医師のように彼らの病の種類を発見して各人に適切な治療を加えられるのであった。

 もしそれヘロデ・アンテパスが、永遠のいのちを得るに何をなすべきかと来たり問わば、イエスはバプテスマのヨハネと等しく、その手を彼の患部に加えて『あなたの兄弟の妻を去れ』と仰せられたことであろう。もしニコデモが同様の質問を試みたならば『あなたがもし完全になりたいのならば、あなたの卑怯な恐れを棄てよ。そうして人々の前に自分を告白せよ』と仰せられたに違いない。

 このように青年司がイエスに来れるとき、イエスは彼の心中の病を発見して、その霊魂に蝕んでいる腫物を悟られたのであった。故にイエスはその患部に手を置いてこれを切開すべきことを命じられたのであった。『もしあなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい』〈マタイ19・21〉と。このようなことはイエスの要求の常である。人の尊ぶところの何たるにかかわらず、イエスはその御手をそこに加え、天国に対して最高の献身をなすべきを要求せられる。『最も愛着するものをこの世に有するとも、イエスが求められるやイエスのためにこれを棄てる者にあらずんば真のキリスト者たるを得ず』)

2022年7月21日木曜日

富める青年(3)

イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(マルコ10・21)

 心の奥まで見透すイエスの目は彼を見つめた。そして彼を愛した。浅薄ではあったが誠意の青年であったからである。しかも知っているだけは実行して来た人であるからである。されば今一つの課題を出してこれに及第すれば十二使徒の中に加えんとされたものらしい。この課題は所有の財産をことごとく売ってしまえと言うのであった。

 間違ってはいけない。これは私有財産の否定でもなければ、共産主義の提唱でもない。パウロはこの課題をよく了解し、かつ立派な答案を差し出した。ピリピ書3章8節に『私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています』と言ったのはすなわちこの答案である。イエスはこの青年にパウロを見出さんと欲し給うたのであるが、彼の財産は遂に彼を『悲しみながら』去らしめた。惜しい青年である。

祈祷
主イエスよ、あなたあh浅薄な私たちにも『見つめ、いつくしんで』下さることを感謝申し上げます。ただ願わくは、私があなたのために一切を献げることを惜しんで、あなたの前を『悲しみながら立ち去る』者にならないようにしてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著202頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。依然として、クレッツマンの『聖書の黙想』の続きである。

 イエスはこの若者に律法の求めているところを思い起こさせた。それは彼がすでに十分、心得ているところであり、また、自分ではその通り行っていると思っていたことだったが、彼の返答はこの律法を本当の意味でわかっていなかったのだということを暴露してしまった。彼はこれを年少の頃から、すべて守り続けて来たと自ら主張したのである。

 愛と憐みの情をこめて、主はその若者を見やった。主はこの若者を導いて、律法の正しい知識と救いの道に至らせたいと、どんなにか願われたことだろう。試みは簡単なものだった。若者は果たして、自分の持ち物全部を棄てて貧しい者に分け与え、自分の十字架を負って、主に従うほどに、主を愛し、隣人を愛しているだろうか。この時は、若者がこの世でも、また来るべき世でも、永遠の幸福を約束してくれる決断をくだすためには何という高貴だったことだろう!

 一方、David Smithは『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』は昨日の8 なぜ、わたしを尊いと言うか に続き9 戒めを守れ  で次のように述べる。

 イエスはこの議論を青年に提出しておいて、直ちにその質問に答え給うた。『もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい』〈マタイ19・17〉と。これ漠然たる命令である。当時おびただしき戒めがあってモオゼの戒めの他ラビの律法よりして付加された多くの掟があった。イエスの意味はこれらの戒めか。あるいは他に新たな自ら制定された戒めであろうか。『どの戒めですか』と彼は重ねて問うた。

 イエスは人口に膾炙した十戒中第二に属し、神を礼拝せんがためにあらずして、人として人に対する義務を口ずさまれた。曰く『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではあんらない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え』と。この答弁に求道者は痛くも失望した。これ彼が心の平和を得んがために忠実にまた努めて守った戒めで、律法の上の義を求むるによって、その霊性には何の慰安も与えられざるが故に、さらに進んで道を示されんことを望みつつイエスに来たのであった。しかるに、彼の希望は空しきに帰した! 彼が多大の望みをかけた教師はこの古い益なき道を示された。悲しくまた悄然として彼は『そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか』〈マタイ19・18〉と答えた。

10 あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい

 これ決して漫然たる自負心ではなかった。イエスはこの感ずべき抗議を聞かれるや、御心甚だ働いて一歩進みつつラビが弟子の満足すべき答えに喜ぶときの所作をもってこの額に接吻された。イエスの目的は神の要求は厳かにして尽きることなきを示されるにあった。故に一つの試験の終わった後に他のいっそう厳かな戒めを彼に与えられた。すなわち彼の面前に彼が未だかつて思いもかけざる犠牲を示し、まともにこれを彼に擬して『もしあなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい』〈マタイ19・21〉と仰せられた。)

2022年7月20日水曜日

富める青年(2)

イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。」(マルコ10・18)

 この青年の今一つの欠点は善悪観の浅薄なことであった。イエスを『尊い先生』とは呼んだが神の子とは認めていない。十戒のごときは『小さい時から守っております』と自信している。彼の考えている善は心の奥まで探られた善ではない。

 イエスはこの浅薄な考えを訂正する必要を認められた。先ず『尊い』の考察を神に基礎づけねばならぬと教えたのである。イエスもし尊いならば神の他何物でもあり得ない。イエスもし神ならずば尊い先生であり得ないのである。

 で、この句は二つのことを青年に教えんとしたのである。一、イエスを神と信ぜよ。二、人はことごとく罪人にして自らの善によって永生を嗣ぐことができないことを認めよ。

祈祷
主イエスよ、願わくは、私に真実の知恵をお与え下さい。自分の心を深く掘り下げて反省する者とならせて下さい。願わくは、浅薄な自己より私を御救い下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著201頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。短文だが、昨日に引き続くクレッツマンの『聖書の黙想』である。

 善なのはひとり、神のみである。しかし、この若者は自分の前に立っているおかたが、まさに文字通りの「神」であるとは、考えもつかなかったのだ。

 一方、David Smithは『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』は昨日の7 若き役人 に続き8 なぜ、わたしを尊いと言うか で次のように述べる。

 これイエスの常に嘉賞される要求であって、周到な恩寵溢れる答はたちまち与えられるのであった。司は青年で、不安を抱く求道者であって、その二つの資格が主の同情を特に引いた訳であった。しかるにかかわらず彼はその表面には甚だしい冷遇を受けたのであった。イエスはその急きたった質問に対して仮借する所なく反対の語を浴びせられた。至誠と恭敬とを献げてこの青年が奉った称号をイエスは捕らえて『なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。』と反駁せられた。

 何故にイエスはこの些細なことに反対されたのであろうか。道徳上不完全なりとの意識から、その属性を否定されるのではないのはもちろんであって、多くの場合これよりもいっそう丁寧な敬語を反対なく受けられたからである。また意味のない敬虔な言葉を厭われるその特質として反対せられたのでもなかった。けだしこの青年は軽々しくこれを用いたのではなかったからである。これ決して便宜的な礼儀の語ではなかった。『先生』あるいは『ラビ』というのは一般の言葉でこれには別に何も被せないで用いられたのであった。この青年がイエスに対してただラビと呼びかけることを不満足として、到底普通の称号を奉るべからざる人物であると思ったのであった。しかし、イエスの反対せられたのは、議論をされる意味であった。すなわちその求道者の胸中を読んで、彼がすでに到達したところを察して、さらに高く導かれるにあった。『汝の言葉を適用すべきところを考えよ。汝は神の属すべき称号を我に与えたり、汝これを知るか」とイエスは問われたのあった。)

2022年7月19日火曜日

富める青年(1)

イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」(マルコ10・17)

 ルカ伝には『ある役人』とある(18・18)多分その地方の会堂司であったろう。エルサレムの宗教家がこぞってイエスを十字架に付けようとしている時に、この青年は熱心に『走り寄っ』た。

 ニコデモのように夜陰に乗じて来たのではない。真剣であったに違いない。が、真剣さが足りなかった。彼はかなり大きな決心をもってイエスに来たのであるが、イエスの命令は彼の予期しなかったところであった。すなわちイエスに対する絶対服従であった。

 十二弟子に対して幾度も言われた『自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい』とのそれであった。イエスにはこの有望な青年を十二弟子の中に加えたいとの心が動いたのではなかろうか。それはともかく、イエスは彼にたった一つ欠点のあるのを見抜かれた。それは財産に対する彼の大きな執着である。これだ。誰にでもたった一つ捨て難いものがある。たった一つの献げかねるものがある。それを棄てなければいけないのだ。たといそれが何であろうとも。

祈祷
主イエス様、願わくは、私の心を照らして下さって私が最も棄て難いとしているものを指し示して下さい。ただ一つの献げ難いものをあなたの祭壇に献げる用意をさせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著200頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 この箇所は三谷隆正さんの『信仰の論理』に収められた文章を読んだのがはじめである。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/11/blog-post_30.html富める青年とイエス様とのすれ違いはどこにあるのかいつも考えさせられるが、未だに充分理解しているとは言えない。下記はクレッツマンの『聖書の黙想』160頁からの引用である。

 富と力とを兼ね備えたこの若者の物語には、何か、とても興味深い、心を引きつけるところがある。この若者は明らかに真剣だったからだ。イエスが道を行かれるとーーそれはいっそう、十字架へ近づける道であったことは心すべきであるがーーその途中で、一人の男がイエスの後から走り寄って、うやうやしく、御前にひざまづいて尋ねた。

「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」  

 偽らない賛辞のこの言葉も、主の心を満たすものではなかった。この若者は、永遠の命を受けるためには、その前にまず、もっと深く主について知らねばならなかったのである。永遠の生命を受けることに関して、この男が考えつくことのできた唯一のことは善いことをするということだった以上、彼の質問に対する答は、まず律法から導き出すことがふさわしかった。

 一方、David Smithは『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』の38章の7 若き役人 で次のように述べる。

 イエスのベタニヤ滞在中に一日未見の人物が請願をもたらしたのであった。彼は若い男で、また会堂の司の職にある有用な人物であった。彼はイエスがまさに弟子たちと共にその宿を出ようとされる所に訪ねて来て、馳せ寄りながら、イエスの前に跪いて『尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。』と尋ねた。これはかの狡猾な律法学者が会堂において提出した質問であって、おそらくエルサレムに上られる道、三ヶ月以前に説教せられたエリコの会堂の主であって、律法学者とイエスとの間の論争並びにイエスの永遠の命に関する説教を聞いたのであろう。

 罪に対する警告の矢はその霊魂を破って、以来痛みに耐え兼ねたのであった。イエスがベタニヤにおられると聞き、その心の煩悶をおろさんとしてエリコから幾マイルを辿って来た。彼はパリサイ派であったが、その中の高尚な部に属する人物で、諧謔的に『我に我が義務を知らせよしからばこれを為さんパリサイ人』という長い称号を与えられた一派のうちのものであった。その無知の頃のタルソのサウロと等しく彼は神に対する熱心家で、律法によっては遺憾なき義に達したものであった〈使徒22・3、ピリピ3・6〉。けれども、義の事業を全うするのに全力を注げるにかかわらず、平和を得ることができなかった。その霊魂はなお何の満足もなかった。彼はその多くを行なったけれども、なお欠いているところがあった。『尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。』と唐突に、何の説明も加えず、その霊魂の煩悶を訴えたのであった。) 

2022年7月18日月曜日

子どもたちの美しい挿話(7)

そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。(マルコ10・16)

 若くして父を失い、母マリヤを助けて 弟妹の世話をなさったイエスは赤ん坊の抱き具合を心得ておられる。幼児たちは喜んでイエスに抱かれた。エルサレムと十字架とを前にしてイエスはしばらく若き頃のナザレのホームに心を馳せたであろうと思われる。イエスに抱かれ、手を置いて祝された人は世界中にこの少数の幼児の他にはない。なんと言う幸せな赤ん坊たちであろう。

 この後、約四十年で、エルサレムがローマの軍勢に滅ぼされた時、キリストを信じる者はこのペレアの地方に走って虐殺を免れた。この時イエスに祝された子供たちが生長していたとすれば四十歳位である。想像に過ぎないが、何だか興味を感じずにはおられない。イエスとペレア地方の幼児。エルサレム滅亡と信者の避難地としてのペレア。何だか神のご摂理の手が動いているように感ずる。

 とにかく私どもはイエスが幼児を祝福したことを忘れてはならない。赤ん坊を教会に連れて行って祝福を受けるのは善い習慣である。

祈祷
幼児を抱き、手を置いて祝された主イエスさま、あなたは今も見えない御手をもって幼児を愛護されることを感謝申し上げます。願わくは、私たちにも、幼児を祝福し、彼らのために祈ることを努めさせて下さい。また私たちにも常に幼児のように心からあなたを慕う者とならせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著199頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。

 記事を読み、日頃の人々に対する自分の接し方を省みるにつけ、イエス様の柔和さは際立っていることに改めて気づかされる。イザヤ書は語る。「彼はいたんだ葦を折ることなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす」〈42・3〉

   F.Bマイヤーはこのみことばについて「この一連の”しもべ”像は、イエス・キリストを描くものです。悪魔は、盛んにささやきます、『それはたかがいたんだ葦ではありませんか。そんなものはうっちゃっておしまいなさい』。しかし、主は言われます、『それはいたんでいる。故に一層手厚い保護が必要なのだ』と。また、悪魔はたたみかけます。『そんなくすぶる燈心なんか目ざわりです。もみ消してしまった方がよいでしょう』と。しかし、主は言われます、『だからこそ、油を注いで明るく輝かせなければならないのだ』。もしも、悪魔の言う通りになったとしたら、一体世界には救われる人は何人いることでしょう。ただこの主のご愛あるがゆえに、いかなる者も救われるのです。」〈『きょうの力』472頁より引用〉

と、その注釈をしていた。)

2022年7月17日日曜日

子どもたちの美しい挿話(6)

『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。』(マルコ10・14〜15)

 これは決して幼児は清浄潔白で罪がないと言われたのではない。幼児には大人の持たない過失がたくさんある。幼児には大人の持つ反省がない、節制がない。わがままであり、衝動的である。歳と共に生長すべく隠れている罪悪もたくさんある。イエスは決して幼児に罪がないから天国の者だと言われたのではない。だから『わたしのところに来させなさい』と仰せられた。

 幼児と言えどもイエスに来たらなければ天国の者とはなり得ない。しかし『イエスに来る』素質が多い。彼らには偽善がない。露骨はある、が、それは素直なのである。自分の小を感じている。学びたい受け入れたい今すぐにでも理想を掴みたい。自分以上の者を仰ぎたい、信じたい、より頼みたい。彼らは英雄崇拝者である。これは神崇拝と隣接した心である。この幼い心をいつまでも持ち続ける人は優れた人となるのである。天国人はこの心がなければならない。

祈祷
天の父なる神様、私たちに幼い者の持つ善い心をいつまでも持ち続けさせて下さい。いつまでも若やいだ心の持ち主であらせて下さい。いつまでも父母を慕う心、天の父を慕う心を持ち続けさせてください。

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著198頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 ) 

2022年7月16日土曜日

子どもたちの美しい挿話(5)

『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。(マルコ10・14〜15)

 今一度私の幼少の時の記憶にふけらして下さい。その頃に私を動かした賛美歌がある。それは461番である。曲は同じであるが歌詞が違っている。幸いにして第一節だけは記憶から呼び起こすことができる。
 イエス 我を愛す 聖書にぞ示す
 彼強ければ 我おそれじな
  ああイエス愛す ああイエス愛す
  ああイエス愛す せいしょにしめす

 それで私は小学校の友達から『ス愛す』と渾名をつけられ、石を頭にぶつつけられて血が流れ出たこともあった。が、幼な心にイエスの愛はいつも有り難く思われて忍ぶことができた。昔も今も変わりなき主イエスは62歳の今日まで同じ愛をもって愛し、いつまでも子供として愛して下さることを感謝ぜずにはおられない。

祈祷
主イエスさま、あなたは八歳の時に私を愛し、六十二歳の今もなお愛し、変わらぬ御手をもって私を愛し、さらに永遠に私を愛して下さることを感謝申し上げます。願わくは、あなたを信じるすべての者に祝福がありますように。アーメン


(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著197頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。この文章は1870年生まれの青木さんが62歳の時書かれたと言うから、1932年〈昭和7年〉のものだ。

 岩波の近代日本総合年表第三版によると、1863.217の記事として

 ヘボン邸、横浜居留地三番館に新築移転。診療所、外国人の宗教的集会所、日本人の日曜学校・英学塾に使用〈日曜学校の初め〉

と、ある。なお、昨日触れた賛美歌は聖歌424番で日本人作詞者の三谷種吉の作品であった。歌詞を写してみる。

1 十字架にかかりたる救い主を見よや
  こは汝〈な〉が犯したる罪のため
  ただ信ぜよ ただ信ぜよ
  信ずる者はたれも 皆救われん

2 死よりよみがえりし命の主知らずや
  罪に死せる人よ 今仰げ

3 イエスは罪のために 苦しめる者をば
  あわれみて救わんと 招きたもう

4 罪より数われて 限りなき命を
  のぞむ者はイエスに 今すがれ )

2022年7月15日金曜日

子どもたちの美しい挿話(4)

『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。(マルコ10・14〜15)

 明治10年私が八歳の時であったと思う。東京の芝区にあったミス・ヤングマンと言う人の経営になる日曜学校にやられていた。かなりの迫害の中からもカードをもらうのを楽しんで通っていた。信仰などと言うものは何もなかったのであるが、一日ある教師がこの聖句を読んだ時に私の幼い心は大きな感激に打たれた。

 私はイエスがどんな人であったか知らない。けれども私のような幼児の味方であり、本当に心から幼児を可愛がって下さるお方であると感じた。私は生まれて八ヶ月にして父を失い母の手一つで育てられた。私の母は特別に私を愛してくれた。が、幼い頃には何か物足らぬ感じがして、よその父ある子供を羨ましいと思ったこともたびたびあった。

 この淋しさにイエスの愛が投げ込まれたのであったろう。この時から私はイエスを信じる心が萌して、その年の秋に母と共にバプテスマを受けたように記憶する。だからこの聖句は非常に好きである。自分の体験からイエスの愛は幼児をも救うことを信じる。日曜学校の幼稚科にもイエスの救いは働くものであると信じる。

祈祷
幼児を愛し給う主イエスよ。願わくは、私たちの家庭、私たちの国家における全ての幼児を恵んでください。願わくは、私たちが彼らの祝福と救いのために祈ること働くことを忘れないようにしてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著196頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。青木さんの明治10年の記憶が鮮やかに記されている。
 それに比べて当方は昭和30年〈1955年〉に小学校を卒業した者だが、多分四、五年生の時だと記憶するが、宣教師が先頭に立ち、「ただ信ぜよ、ただ信ぜよ、信ずる者はたれも、みな救われん」と歌う、そのあとを私たち子どもが唱和してぞろぞろ歩いた記憶がある。中山道を町の端から端まで歩いた。大書した幟やアコーデオンもキャンデーもあったように記憶する。なぜ子どもたちがぞろぞろあとをついて行ったかと言うと、それは言うまでもなく、キャンデーはじめ様々なものがもらえるからだった。貧しい敗戦下の田舎でこうして物珍しいアメリカ文化の一翼に触れたのは「物質」であった。
 しかし、後年、平成3年〈1991年〉ごろ小学校の同級生を彦根のキリスト集会に誘った。その時、その友人はこの時のことを詳しく話してくれた。毛糸屋さんの二階を借りて日曜学校が開かれその友人は熱心に通い始めたが、親に反対されて行かなくなった、と言うことだった。今回君に誘われてベックさんの話を聞いたが、その通りだと思う。しかし、父が満州から命からがら引き揚げてきたのはその時、父が手にした小さな仏像だった。それ以来父はそれを大切にしてきた、その父を裏切ることはできない。自分は福音は素晴らしいと思うし、あの小学時代日曜学校で耳にしたことばは残っている。しかし、自分は信ずることができないので、もうこれ以上勧めてくれるなと言うことだった。
 小学校時代に接した福音は私に浸透しなかったように見える。私は日曜学校の存在も知らず、出席しなかったから。ただあの時歌った歌詞メロディーは今も再現できるし、懐かしいし、福音そのものであることを思う。私は無意識であったが、主は私の心の奥に語り続けていてくださったのだ。一方その友人とはその後、ご自宅を訪問し二、三回交わったことがある。その後、認知症を患われていると聞いている。幼い日の福音が彼の心に残っていると思いたい。)

2022年7月14日木曜日

子どもたちの美しい挿話(3)

『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。(マルコ10・14〜15)

 幼児と神の国について二つのことを言い給うた。一つは神の国はこのような者から成立するというのである。換言すれば神の国の住民の姿は幼児の姿である。さらに換言すればイエスは弟子らの中においてよりも、幼児の心の中にご自身と共通のものを、より多く見出し給うたのである。

 二つは神の国を喜んで受ける態度がこれらの幼児のようであれ、と言うのである。たいていの大人は心がひねくれている。幼児の心は素直である。大人は先ず批判する。幼児は先ず信じる。世のことにおいては先ず批判することが大切かも知れないが、神に対して、すなわち天の父に対しては先ず信じる心が大切である。

 互いに先ず批評する家庭は立派にはならない。先ず信じ互いに受け入れる心を持つ家庭は円満幸福な家庭である。神の国においても同様である。

祈祷
天の父よ、あなたに対する幼児の心をお与えください。赤子が慈母を慕うようにあなたを慕いあなたを信じあなたに頼り、一刻もあなた無くしては存在することができないことを感じる者とならせてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著195頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。なお、David Smithの『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』はこの間のイエス様の行動を38章 ヨルダン対岸のベタニヤへ隠退 とまとめ、1「ヨルダン対岸ベタニヤにて」 2「この地の伝道」 3「離婚に関するパリサイ人の質問」 4「主の答弁」 5「弟子たちの当惑」 6「子どもたちの来るのを止めるな」 7「若き役人」 8「なぜわたしを『尊い』と言うか」 9「戒めを守りなさい」 10「あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい」 11「富む者が神の国にはいるのはむずかしい」〈十二使徒の驚愕〉 12「ペテロの質問」 13「主の答弁」 14「ぶどう園に労作する者のたとえ」 〈使徒の雇い人根性を矯正するため〉 〈使徒の傲慢を戒めるため〉と14項目に分けて扱っている。その巻頭の詩、1、5、6に該当する部分である。

『我れ厳粛なる心と 己を棄てる意志とを求む
 罪を楽しむ貪婪を蹂躙し これを潔く毀ちつつ
 苦痛に対し、辛苦、悲愁、損失に対し喜んで
 聖別された十字架を大胆に負う堅固持久の霊魂を求む』
            チャールズ・ウェスレー

1「ヨルダン対岸ベタニヤにて」

 イエスはエルサレムを去って、ヨルダンの対岸ベタニヤに赴かれた。イエスがこの地に転ぜられるのは自然であった。ここはヨハネが説教を試み、またイエスが洗礼を受け、イスラエルに己れを表明し、また最初の弟子を得られた土地であった。したがって、この地点はイエスにとっては神聖この上もない場所であって、今やその最後の近づけるとき、神との交わりによりその霊魂に休養を与え、かつ恐るべき呵責たるその終焉に対する気力と忍耐とを獲得せんがためにここに来られたのであった。しかもその行動はただ己れ一個のためのみではなかった。その弟子のために少なからず憂悶せられたためであった〈ルカ22・31〜32〉。イエスは彼らの弱さを知り、また彼らの信仰が、試練の日に揺るがないよう、彼らのためにとりなしの祈りを献げられるためであった。なお御心はエルサレムにも惹かれ給うのであって聖都の役人はイエスを除き去ろうとしたが、イエスはなおこれを棄てず、これを導く望みをまったく放棄されないのであった。さらに新たな説教をここに試みられる志があるのであっておそらく一層有力な手段と一層不可抗の要求を与えて、神がこれを聞かないわけにはいかないように祈られるのであった〈ヨハネ11・41、42参照〉

5「弟子たちの当惑」

 パリサイ人は答弁を与えられた。彼らはもはや一語も挟まなかったが、弟子たちが問題を提出した。彼らはユダヤ人であるために結婚の足枷がこんなにも厳格に嵌められたものならば大変困難な問題だと考えた。そして宿に着くや、もしこんなことが彼らの結婚の条件であるならば、結婚しないに越したことがないとイエスに抗議したが、その語が短気であるのを意に介せず、イエスはこれに答えられた。結婚しない方が善いと思うのはもっともである。しかし、それは天国に身をささげようとする者が犠牲とすることによって実行できるのであって、禁欲は必ずしも賞賛すべきものではない。『母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです』〈マタイ19・12〉と。

 しかしこの最後の一つは肉の思いで独身者になったのでなく、自由に天国のために自ら進んで、男子が受け取ることのできる喜びを捨てたと言う意味で語られたのであった。『天の御国のために、自分から独身者になった者』とは聖パウロのように主の事業に携わるため結婚を断念する人を言うのである〈1コリント7・25〜40〉。これは実に尊い禁欲である。しかしこのようなことは犠牲があまりにも大きすぎるであろうか。ミケランジエロは常に『芸術は妻として充分である』と言って結婚しなかった。天国は実にこのような専心没頭するに足る事業と同様の要求をなし得るのである。

 イエスは決して独身をもって絶対の法則とされなかった。その弟子に対し、『現在の必要上より』妻を持っている者も、妻を持っていない者と同様の危急を要する時のことを思い浮かべておられたのである。『そのことばは、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただそれが許されている者だけができるのです。』と仰った。これを受ける資格がない点においては、天国の要求以上に肉欲をほしいままにするのも、また天国のために自己の肉体を切断する誤った敬虔な英雄的な人々も同様だと思われる。『それができる者はそれを受け入れなさい』。

6「子どもたちの来るのを止めるな」

 まもなく前のとはたいへん違った一団の人々が訪ねて来た。すなわち、この恩恵に満ちている教師の祝福を受けるため、両親が子供を連れて来たのであった。彼らは慎み謹んで恭しく子供をイエスのところに連れて来た。『彼ら幼な子をイエスに献げる』※と福音記者は言っている。彼らは祭壇に供物を献げるように子供を伴って来たのであった。これはまことに厳かな献物をなす行動であって、イエスは深く喜ばれた。しかし、弟子たちはこれを喜ばなかった。

 おそらく彼らは離婚に対する攻撃に胸中動乱し、イライラした気分に囚われて、理不尽に押しかけて来たのを憤ったのであろう。イエスは彼らのぶっきらぼうな心を悲しんで『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです』と叱責された。このようにして幼な子を腕に抱き上げ、彼らの頭に手を置いて、これを祝福された。この幼な子にとっては驚くべき経験であった。後年に及んでこの幼な子たちはこのことを語り合い、あるいはその子どもらの子どもにまで語り伝えたことであろう。

※David Smithは”They offered them unto Him"と書いている。欽定訳は”They brought young children to him"と書いていた。)

2022年7月13日水曜日

子どもたちの美しい挿話(2)

弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って・・・(マルコ10・14)

 イエスは『心優しく、へりくだった』と言われた方であって、滅多に『憤る』ようなことはない。イエスが憤慨されるのは、本質的に大きな事件であらねばならない。たといこの世の眼から見て些細なことのようであっても天国の眼から見れば、大きな事件であるに相違あるまい。

 然り、弟子たちが幼児のイエスに来るのを禁じたのは大きな冒瀆であった。幼児と神の国とは最も接近したものである。今日の心理学者にも幼児に宗教は解し得ぬものだと説く人がある。弟子らのこの態度と同じである。『心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです』のであって、理屈で神を見出した人はない。幼児には理屈はないがこの直感がある。

 イエスは弟子らよりもむしろこれらの幼児の中に神の国の近きを見出し給うて大いなる慰めを感じ給うたのであろう。しかるに弟子らが大人のたかぶりをもって幼児のへりくだりを圧したのをご覧になって憤られたのであると思う。主はいつでも心の貧しい者の味方である。

祈祷
神よ、願わくは、私たちを全てのたかぶりから御救いください。小児に対する大人のたかぶり、卑しき者に対する対する知恵の高ぶり、などより私たちを救って幼児のような心を持たせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著194頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。さて、クレッツマンは『聖書の黙想』で次のように書いている。同書156頁より。 

 人類の幸福のための神のご計画の中で、幼な子たちはいつでも重要な役割を演じて来た。私たちは誰でもキリストのこの言葉を知っている。「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい」〈マタイ18・10〉

 弟子たちでさえ、この注意を受けなければならなかったのである。母親たちがイエスのもとに子供たちを連れて来て、イエスに、手を子供たちの上に置いて祝福してくださいとたのんだ時、弟子たちは、おそらく善意からだろうが、師の身を気づかって、無分別にも、彼らが近づくのを妨げようとした。主はこれをきびしくとがめられ、弟子たちをただし、ご自身とその幼な子との間を妨げることは誰にも許されなかった。次の言葉は、何と味わうべきものではないか。「 子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです」。

 さらに、ここで、私たちは、だれも、幼な子にまさる権利を持つ者でないことを、きわめて、はっきりと知らされる。神は彼ら幼き者に対しても、私たちにそうして下さると同様に、信仰をお授けになる。実際、彼らが主のお言葉をそのまま、素直に信じて受けとって行く態度はあらゆる人々の模範となるものだ。神と天国に至る道は、このような信仰のほかにはない。

 主は「子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された」。この祝福にあずかることができたのは、特定の子どもたちだけだったのだろうか。いや、決して、そうではない。主の御言葉は特に聖なるバプテスマで、私たちが主のもとに子どもたちを連れて行く時、彼らを力強く求められ、祝福してくださる。

 願わくは、私たちがこの祝福を幼な子から、奪い取る者でありませんように!

※残念ながら痛ましい事件が起きてしまった。主イエスさまは絶えず人々から注目され愛された。そして敵なる人たちからは絶えずそのいのちを奪われるために付け狙われていた。ヨハネ18・3〜15。日本社会が冷静な議論を積み重ねられますように。東京新聞の朝刊斎藤美奈子氏の見解を支持したい。)

2022年7月12日火曜日

子どもたちの美しい挿話(1)

さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちはしかった。(マルコ10・13)

 おりもおり、結婚問題でイエスの厳格な態度に驚いてむしろこれを否定しようとする弟子らの眼前に結婚の祝福である『子どもたち』(ルカ伝には幼な子たちとある。赤子である)をつれて来た人々があった。神のご摂理であろう。

 イエスの厳格な結婚観は人間を呪うためではない。祝福するためである。結婚はイエスの言われた厳格な意味においてのみ福祉となるのである。共同生活友愛結婚などは少しも人格を創造しない。さらにかような結婚における子どもの立場を考えてみるがいい。

 神様は結婚問題の最中に子どもと母親とをつれて来られたのは面白いではないか。いづれはイエスの人格に惹かれ、かような人にあやからせたいと願った母親であろう。『イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た』との句には女らしいやさしい響きがある。

祈祷
神よ願わくは私たちのホーム、私たちの子らを憐み顧みて下さい。願わくは、あなたの手で彼らに触れ、あなたの愛の手で彼らを育み養って下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著193頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 何とも魅惑的なマルコ10・13〜16の場面である。青木さんはこの箇所について、これから一週間そのみことばを味わわせて下さる。それは追々明らかになって行くことと思うが、この箇所についてお馴染みのA.B.ブルース、デーヴィッド・スミス、クレッツマンもまたそれぞれ語っており、三者ともその主張するところはほぼ一致している。先ずはA.B.ブルースの『十二使徒の訓練』下巻24頁所収の文章であるが、この文章は第16章 自己犠牲についての教え 1 完全への勧め の末尾に当たる文章である。

 ここで、祝福を求めてイエスのもとに連れて来られた子供たちの美しい挿話に、一言触れておくことは適切であろう。この物語を読んで、イエスが修道院臭い道徳論を教えようとしておられると誰が信じられるだろうか。イエスが、家族関係の軽視と思われる、事実長い間そのように解釈されていたことばを語られた直後に、母親たちが彼女らの子供に祝福を求めてイエスのもとに来たのは実にタイムリーであった

 彼女たちがやって来たことは、彼の教えのそのような誤解に対する、前もっての抗弁の導入の機会となった。この母親と子供たちを主から遠ざけようとする十二弟子のお節介は、その抗弁をいっそう強調しただけであった。弟子たちは、神の国のために結婚を断念することに関して、そのときイエスが語られたことばから、修道院制度が生まれるような強い印象を受けていたのではないかと思われる。

 「主は、この母子たちをどれだけ心にかけておられるのか。主の頭の中は天の御国のことでいっぱいなのだ。そこでは、彼女たちは結婚することも結婚せられることもない。さあ、向こうへ行け。こんな時に主を煩わせるな」と彼らは考えた。熱心すぎる警官隊のように彼を守ろうとする弟子たちに、主は少しも感謝されなかった。「イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。』」

※前回、「主の結婚観」下 の末尾で、A.B.ブルースの所説を詳細に紹介するのは難しいと書いたが、この末尾に位置するところでA.B.ブルースが何を問題として論を展開しているか語っている文章がある。それは「この物語を読んで、イエスが修道院臭い道徳論を教えようとしておられると誰が信じられるだろうか。」と言っている部分である。福音書、ひいてはイエスさまのお考えはまさに天の御国に入る者にふさわしい説明を「結婚」について「家族」について語られていることを読み取りたい!)

2022年7月11日月曜日

主にある結婚観(下)

人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。(マルコ10・9)

 神を信じない者には本当の結婚はない。本当の人生がないのだから、本当の結婚のあるはずはない。恋愛は結婚の基本条件ではない。神によりて相識り相信じ相相するに至ることが条件である。ホームを造るのは宗教的事業である。ホームは三人で造る。神と男と女とで造る。神の前に二人が互いに謙って自己に不足したものを半身とするところの人に認めて行くのである。

 男と女とは多くの場合にものの見方が違う。感じ方が違う。だから意見の違う場合が多い。この相違を争いの種にする家庭もあるであろう。この相違を互いに補充するの材料とする家庭もあるであろう。神の前に互いに謙る時に相違する意見や感じ方がかえって相互の人格の補充となることを見出す。少なくとも見出さんとする。

 この練習は『人は・・・引き離してはなりません』との信念の上に立つ者でなければ出来ない。ソクラテスが怒りやすい妻クサンチッペの乱暴を人格修養の材料と見たのは興味深い。

祈祷
神よ、あなたは『結び合わせ』給います。あなたは調和を愛し給います。全く異なる色彩が調和するのはどんなに美しいことでしょう。あなたは人を男女に造って美しい調和の世界を織り出さしめられます。願わくは、先ずホームの中にあなたの天国を来らせてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著192頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。さて、主の結婚観を詳細に福音書は書き留めており、マルコだけでなく、マタイ、ルカを読むことにより理解は深まる。その助けになる文章を、David SmithもA.B.ブルースもかなり詳細に描いている。ここでは俯瞰的に捉えているA.B.ブルースの文章の一部を紹介する。「十二使徒の訓練」下巻の第16章 自己犠牲についての教え 1 完全への勧め 〈マタイ19・1〜26、マルコ10・1〜27、ルカ18・15〜27〉からの抜粋引用である。同書7頁から

 最終的にガリラヤを後にしたイエスは、残された短い生涯における居住地と活動の舞台を、ヨルダン川下流の東方の地域に求められた。イエスはその宣教の働きを開始した場所でそれを終えられたと言えよう。バプテスマを受けることによって聖なる務めへの献身をあかしし、また最初の弟子たちに出会ったその場所において、イエスは病人をいやし、天の御国の高遠な真理を教えられたのである。

 その生涯の終わり近くに行われたペレヤ訪問は、それに付随する多くの出来事を別にしても、それ自体非常に興味深く、また意義深い事実である。〈中略〉そこには様々な目的から「多くの人々がイエスのところに来た」。パリサイ人たちが来たのは、結婚と離婚に関する面倒な質問でイエスをわなにかけるためであった。

 「パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。『何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっていることでしょうか。』」〈マタイ19・2〉この質問にイエスは、まず、離婚は配偶者の不貞によってしか正当化されないという基本原則を示し、モーセの律法において反対のことが言われたのは人々のかたくなな心に対する融通処置にすぎない、と説き明かすことによって答えられた。弟子たちはこの答えを聞くと、彼らの意見をさしはさんだ。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」〈マタイ19・10〉

 主の見解は、彼らにとっても厳格すぎるように思われた。その見解は、互いの気性が合わないことや、無意識の嫌悪、習慣の不一致、宗教上の相違、親族間の反目などといったことを無視していた。彼らは、そのような生涯にわたる取り決めに身を任すべきか、あるいは、結婚生活をせずに苦難の太海を避けて通る方が得策かどうか自問することが、果たして人間にうまくできるだろうかと思った。

 多分そんなような動機に関すると見られる弟子たちの即席の意見は、決して思慮のあるものではなかった。だが、イエスがそれを頭から否認なさらなかったということに気づかされる。イエスは、独身をよしとする感情に同情的に語られた。あたかも、結婚しないことは、より良い、より思慮のある道であるが、大多数の人には実行できないことなので、それは誰にでも要求されるものではないかのように。「しかし、イエスは言われた。『そのことばは、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。』」〈マタイ19・11〉

 それからイエスは、何らかの理由で結婚しないでいる人々のケースを数え上げていきながら、自発的に、高遠かつきよい動機から家族関係の慰めを拒否した人々のことをはっきりと是認された。「天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。」〈マタイ19・12〉

 こうしてイエスは、最後に、そうするように召命を感じ、またそれが可能と感じる者はそうすべきであることを弟子たちに理解させた。イエスは言われた。「それができる者はそれを受け入れなさい」〈マタイ19・12〉と。このことばは次のことを暗示している。多くの人はそれを受け入れられない。結婚生活の様々の障害を耐え忍ぶことは、たとい結婚の義務についての最も厳格な考え方のもとでさえ、独身の状態で完全な貞節を保つことに比べればはるかに容易である。しかし、天の御国のために自分から独身者となることができる人は幸いである。多くの困難を避けられるだけでなく、余計な心遣いから解放され、余念なく御国に仕えることができるからである。

※実はこの後、実に11頁にわたる詳細な論が提供されているが、現在の引用者にはまだ理解できないところがあるので思い切ってカットした。) 

2022年7月10日日曜日

主にある結婚観(中)

『それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。・・・』家に戻った弟子たちが、この問題についてイエスに尋ねた。(マルコ10・8、10)

 弟子たちは結婚に対するイエスの厳格な態度に驚いたらしい。マタイ伝の方を見ると『弟子たちはイエスに言った。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです」』(マタイ19・10)とまで言っている。イエスは結婚なさらなかった。真実にイエスの半身となり得る婦人があったであろうか。

 また思う、イエスは他の人間において自分の半身を見出さねばならぬほどに自分自身に貧弱さを感じたお方であったろうか。イエスの人格は完全であった。男として完全であったのみでなく、人間として完全であった。男性的に見ても女性的に見ても、イエスは立派な人間であった。だから別に半身を要しない。本当の結婚は二人で一つの人間となることだ。二人が一体となってイエスのような人格を造り出すことだ。もしこの理想が実現されるならばその子孫にはイエスに似た者が多くなり、天国が地上に現われてくるであろう。

祈祷

神よ、願わくはすべての家庭を浄め給え。二人一体となってイエスのような人格を創造すべく努力するホームを私たちの中に多く起こし給え。願わくは、あなたを信じるずべての家庭にこの大なる事業を進捗(しんちょく)せしめ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著191頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下は、引き続き、クレッツマンの『聖書の黙想』からの引用文である。

 これに対して、パリサイ人がどんな反応を示したかは明らかではないが、弟子たちは家に入って、イエスと対座した時、自分たちがこれまでの指導者の教えから、どんなに深く影響を受けているかを悟らない訳にゆかなかった。彼らは、いまだに、もし男が、好ましくない妻を出すことができなかったら、それは男にとって、不利益なことだという気がしたのである。しかるに、主は、男でも、女でもーーマタイの福音書19・9から学ぶようにーーどちらか一方が姦淫の罪を犯したというのでなかったら、その配偶者を出して、他の者と結婚してはならない、ということが神の御旨であり、御心であると主張されたのである

 かくばかり、道徳が退廃し、手軽に離婚が行われている今日、主のこの御言葉を考えることは、神聖な結合に至る以前でも、意味深いことではないだろうか。

※アンダーラインを施した部分は、マルコの福音書を読むばかりでは出て来ない要点である。むしろマタイ19・9〜10を併せて読むことによりこの論旨が理解されると思う。)

2022年7月9日土曜日

主にある結婚観(上)

イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。」(マルコ10・5)

 これがイエスの旧約観である。イエスは旧約の戒めを暫定的なものと見ておられる。悉(ことごと)く然りと言うのではないけれども、人情が冷ややかになっているために本来のご要求には到底応じられぬので旧約時代の人には割合に寛大な戒めが与えられていた。

 しかしイエスはこれらの戒めを『成就するために来た』(マタイ5・17)お方である。これを成就して神の本来の御目的に適う人間を造らんと為し給うのである。

 イエスがガリラヤの一工人の身でありながらイスラエル建国の偉人モーセ以上の権威をもって『しかし、創造の初めから』と言われたことは如何に天の父の心を確実に知っておられたかを示すものである。もう一度イエスの前に跪いて御教導を受けよう。

祈祷
イエス様、あなたは貧しい生活にお生まれになりましたが、いと高い神の権威をもって私どもをお導きくださいますことを感謝致します。私たちも物質的に貧しい生活の中にあってこの世の思潮に動かされず、ただ永久の真理であるあなたに従い行かせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著190頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下の引用文は昨日に引き続いてクレッツマンの『聖書の黙想』からである。

 イエスがこの問題に関して、律法は何と言っているかと〈パリサイ人に〉尋ねた時、彼らは彼らなりに、その律法を自由に解釈して、男はその妻に離縁状を書くだけで十分で、男の目から見て十分な理由があれば、どんな理由ででも、妻を出すことができるのだということを、当然のことのように考えていたのである。そこで主は、モーセが巷の立法者のように振舞ったのは、人々の心がかたくなであることを考慮して、更に大きな害を避けようとしたのだ、ということを指摘される。

 しかし、主は、神が男と女を造られた時にこの律法を定められた通り、その根本の主旨と意味に立ち帰って、人はその父母のもとを離れて、神聖にして犯すべからざる結び合いによって一体とならねばならないと説き、それから更にこう言って言葉を結ばれた。「こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」。

 こうして、主は、結婚を男と妻との終生変わらぬ結合として承認する、神の認印を押されたのである。) 

2022年7月8日金曜日

パリサイ人の質問

すると、パリサイ人たちがみもとにやって来て、夫が妻を離別することは許されるかどうかと質問した。イエスをためそうとしたのである。・・・モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました。」(マルコ10・2〜4)

 パリサイ人らは実に奸智がある。イエスはペレアに入った。ペレアはヘロデ王の領地である。バプテスマのヨハネは妻の問題でヘロデに首を斬られたのである。イエスはパリサイ人の憤慨するほどに当時の道徳問題には常に寛大であった。安息日を守ることや断食することや十分の一を献金することや食前に手を洗うことなどについて自由な説を執られた。のみならず罪人らを愛してこれと交わった。

 が、一つだけパリサイ人以上に厳格なことを主張していた。それは離婚の問題である。これを熟知していた彼らは今それを利用してイエスの立場をヘロデ王の前に不利を導こうとしたのである。だが、死を決しているイエスにそれが何であったろう。世の知恵は如何に巧妙であったとしても、まっすぐに十字架を見つめて進む者には何らの威力もない。

祈祷
主イエスよ、願わくは、私をもあなたのように一直線に十字架をさして進む心をお与え下さい。決死の心をもって日々夜々を送らせて下さい。私たちはそこにのみ真の平安があることを知ります。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著189頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下は、クレッツマンの昨日の文章の続きである。

 この地にあって、イエスは、群衆とこの世に、神の最も古い定めである婚姻についての教えを説き、同時に神の愛と救いの恵みにあずかるものとして、幼な子たちが持つ最高の栄誉を指摘された。

 さて、ここで、パリサイ人たちはイエスを陥れようとして、一つの質問をした。周知の通り、東洋人はたいてい、婦人を低い者とみなしていた。モーセの律法に反するにもかかわらず、ユダヤ人もまた、男が妻を欺くのはたやすいこととしていた。彼らの指導者たちの申命記24章1〜2節のような章句の意味に関する議論だけでは、彼らの助けになっていなかったのだ。)

2022年7月7日木曜日

最後のご旅行

イエスは、そこを立って、ユダヤ地方とヨルダンの向こうに行かれた。すると、群衆がまたみもとに集まって来たので、またいつものように彼らを教えられた。(マルコ10・1)

 『そこを立って』とあるのは『そこを立ち上って』と訳した方がよいと思う。永い間ガリラヤ伝道の中心地点として愛しておられたカペナウムに最後の別れを告げてユダヤ地方を指して旅立たれたご様子を示した文字である。

 最も力を注がれたガリラヤ伝道も終わりを告げ、いよいよエルサレムに上って十字架につき給う最後のご旅行である。『ヨルダンの向こう』とはぺレアである。『いつものように彼らを教えられた』とは十一月頃から翌年三月の末頃までペレア地方の伝道に従事し給うことを指したものである。この三、四ヶ月間の記録はルカが最もくわしい。ルカ伝9章51節の『エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ』とあるが、本節の『そこを立って』に相当する。

 この時サマリヤ伝道をなさるおつもりであったが拒絶され、ペレアに向かわれた。ルカ伝10章から18章14節まではこの間の出来事や御教訓の記録である。最後の御伝道としてすこぶる興味深いものである(この機会にご一読下さい)。十字架を前にして、悠々と最後の伝道を試み給うイエスを今一度深く思いたい。

祈祷
主イエス様、今私どもをして静かに厳粛に十字架を前にして3、4ヶ月の伝道を試み給うあなたのお姿を思わせて下さい。涙なくして思うことはできません。主よ、ありがとうございます。終わりまで世を愛し給うたことをありがとう存じます。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著188頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。上記文章中に青木さんがわざわざ注記しているように、ルカの福音書に明記してあることで、マルコの福音書がカットしている出来事がたくさんある。従ってこれまでのようにデーヴィッド・スミスの『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』の叙述を一時断念せざるを得ない。一方クレッツマンの『聖書の黙想』はマルコの福音書の黙想であるので、これまで通りご紹介できる。以下はそのクレッツマンの23「婚姻と幼子たち』 〈マルコ10・1〜16〉と題する文章の冒頭部分である。〈同書153頁より引用〉

 イエスのガリラヤでの伝道生活は終わりを告げる。一行が訪れたカペナウムやベッサイダやコラジンなどという土地は、その訪れの時を利用しないままに終わってしまった。一個人、一社会、あるいは一地方、いずれにしても、教えに耳を傾け、信ずるように提供される機会というものには常に限度がある、だから、時期を逸してしまうと、取り返しがつかない。

 主はゆっくりと、エルサレムへの道をたどられたが、その地でご自身を待ち受けているものが何であるかをすっかり知っておられた。ヨルダンの向こうのペレヤでは多忙をきわめた。人々は彼のもとに群がり、主はこの人たちの必要とするものを授けられた。もし、彼がここでこのように、群衆を癒すことがなかったなら、ご自身の神性を否定することになっただろう。また、もし、彼が生命の糧を群衆に与えることがなかったら、ご自身の務めに忠実でなかったことになっただろう。)

2022年7月6日水曜日

霊魂のたいせつさ(3)塩の力

塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして互いに和合して暮らしなさい。(マルコ9・50)

 マタイ伝5章13節には『あなたがたは地の塩です』と言ってクリスチャンを塩にたとえている。ここでは幾分かその意味もあるけれども、信者自身よりは信者の心に宿る聖霊にたとえてある。

 『自分自身のうちに塩けを保ちなさい』とは聖霊を指すのである。私たちは内住の聖霊によって味のよい人間となるのである。かつ、自己中心でなく『互いに和合し』『互いに人を自分よりもすぐれた者と思う』(ピリピ2・3)ことが出来る。

 もし信者が聖霊という『塩け』を失ったならば、塩けなき塩のようなものとなってしまう。その時は、周囲の者に味をつけることもできず、社会の腐敗を止めることも出来ず、全く「外に棄てられる」廃物となってしまう外はない。

 前節には聖霊を『火』にたとえ、ここでは『塩』に比してある。ともに心を浄めることを含んでいるが、塩の方がより温和な表れを指してある。

祈祷
主よ、私たちを聖霊の塩をもって味つけてください。キリストのものであるがゆえに、かえって世の人の前にさえも妙味ある者と見られるまでに至らせてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著187頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。)

2022年7月5日火曜日

霊魂のたいせつさ(2)火の力

すべては、火によって、塩けをつけられるのです。(マルコ9・49)

 『ゲヘナの消えぬ』火は恐るべきものである。この劫火(ごうか)を逃れんとするならば、手足を切断するほどの火の如き苦痛をも忍ばなければならない。元来人間というものは『火をもて塩つけられなければダメなものである。』刑罰の火を免れんと欲する者は試練の火を通過せねばならない。

 鉄が火の中を通って後に始めて役に立つものとなるように、人も苦痛の火爐で煉られて後に始めて『塩つけられる』のである。換言すれば味のある人間になり、腐敗せぬ人間となるのである。

 バプテスマのヨハネも『良い実を結ばない木は、みな切り倒されて火に投げ込まれます』と言った直後に『その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになる』〈マタイ3・11〉と言っている。『火のバプテスマ』とは心の汚れを焼き尽くす聖霊の働きである。

 ゲヘナの劫火か、聖霊の浄火か。我らの罪はどちらかに焼かれねばならないのである。

祈祷
主よ、願わくは、私たちをゲヘナの火から免れさせてください。聖霊の火は如何に熱くとも、願わくはこの浄火によって私のすべての汚れを焼き尽くし、純金のようになってあなたの前に立つことができるようにしてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著186頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。)

2022年7月4日月曜日

霊魂のたいせつさ(1)その意義

もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。(マルコ9・43)

 全体を比喩的に読むべきであろう。ゲヘナはヒンノムの谷ということで塵芥の焼却場であると同時に死刑囚の死体を投げ込んだりする場所である。腐りかけた手を切断することを惜しんで生命を失い死体をヒンノムの谷に投げ込まれるよりも、早く外科手術をして体の全体を救う方がよい。

 そのように霊魂の手が腐りかけた時には霊魂の外科手術をやって、その患部を切り去り、霊魂全体を永遠の死より救うがよいということであろう。先に海に沈められる刑罰を借りて人をつまずかす罪の重いことを説いたが、今ゲヘナの火を借りて自らつまずかすことの危うきを説いたのである。

 『ゲヘナの消えぬ火』を直ちに永遠の地獄と解釈すべきではあるまい。要するに『いのちにはいる』ためには如何なる苦痛をも忍び、如何なる犠牲をも惜しんではならぬ。少しの脱疽〈だっそ〉がたちまちに全身に及んで取り返しがつかないように、少しの罪も早く悔い改めて切断せねば全霊魂を失うに至るとのご教訓であろう。

祈祷
神様、私どもは肉体の疾病は恐れます。これを治すためには時間も労苦も金銭も惜しみません。けれども霊魂の疾病にはまことに無頓着であり無感覚であります。どうか虎狼よりも恐ろしい内心の罪より私どもを斬り放って下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著184頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。)  

2022年7月3日日曜日

人をつまずかせるな

また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。(マルコ9・42)

 驢馬(ろば)に轢(ひ)かす大きな臼である。昔ギリシヤ、ロマ人の間に行なわれた刑罰の一つであって、かつてはヘロデ王の時にガリラヤ湖で行なわれた事もある。人をつまずかせて喜ぶ輩がある。少年に酒を飲ませて酔って苦しむのを見て興ずる人もある。信仰に入ったばかりの人をひやかして喜ぶ人もある。彼らは知らずして悪魔の手先となっているのである。

 罪とも思わぬ小さい事のようであるが、彼らの罪は重い。彼らは臼を頸(くび)にかけられた人のように罪の深みに沈み行く、地獄の底に沈んで行く。

 人の霊魂をおもちゃにする人は非常に危険な所に立っている。自分の霊魂をおもちゃにする人もある。そのような事をする『手』や『足』は切り去っても惜しいものではない。大切な『眼』でも霊魂には代えられない。『えぐり出して』棄てる方がましである。霊魂と来世の現実さをもっと真剣に考えないと意外の失敗に終わる。

祈祷
天の父よ、私たちを『つまずき』より救ってください。また『つまずかせる』罪を犯さぬよう私の手と足を守り、眼と口とをお守りください。人の霊魂と自分の霊魂の厳粛なる事実の前に、恐れ慄く心を持たせてください。アーメン


(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著184頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下は、昨日のクレッツマンの文章の続きの文章である。話は今朝の引用箇所マルコ9・42にとどまることなく、マルコ9・43〜50にまで敷衍している。

 主が弟子たちに与えられた三番目の教えは最も峻烈なものであった。主はヨハネが邪魔した男のことをまだ考えておられたのだろうか。それともまだ主の腕に安らかに抱かれていたのかも知れない幼子に心を寄せられたのだろうか。主は力をこめ、激越な調子で、弱い者をその通り道に石を置いてつまずかせたり、言葉や自分の実際の姿で迷わせたりすることへの鋭い警告を発せられた。こういう人間にとっては、首に石うすをつけられ、海の深みに沈められた方がはるかによいのだと。弱い者やいたいけな者に注がれるイエスの愛は、なんと驚くべきほどの大きさであろうか。また救いが当てられている一人を傷つける者への主の怒りはなんという烈しさだろうか。

 そしてこのように、おそるべき言葉を連ねて主は、神が賜った肢体、手や足や目を切り離すことを要求されてはいない。そのような不具の体も心の奥の罪をえぐり出しはしないだろう。しかし主は弟子たちに、きびしい自己陶冶と自己否定の実行を期待されている。彼らが地獄の火に投げ入れられないように・・・。そこでは彼らのうじは死ぬことがなく、その火は消えることもないのだ。わたしたちは地の塩ではないのか。それならば罪に自己を支配させるよりも、わたしたちが住んでいるこの世の腐敗を押しとどめる働きをしようではないか。地の塩となること、他の人との平和の中にあること、このことこそクリスチャンにとっての理想ではないだろうか。) 

2022年7月2日土曜日

『水一杯』

あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。(マルコ9・41)

 実に嬉しい御言葉である。二様に嬉しい。一には『キリストの弟子』を斯くまで愛護したまうかと思えば、何という特権かと思われて嬉しい。キリストの弟子となるに至らぬでも、単にキリストの賛成者であって、わずかに水一杯を寄付した人までも、報い給う主の愛は万人の父の愛である。

 二には我々の為すところが如何に小さくとも、キリストを愛するがために行うものであれば決してその報いを失わないことが嬉しい。報酬を求める善を笑わば笑え。私には些細の善にも大きく報い給う神様の愛が有難い。父母がその子の少しの善でも探し出してこれを褒めてやりたいのと同じ御心である。

 私はこういう神を天の父と仰ぐことが出来て嬉しい。私どもの生活にはどうせ大きな仕事を為す機会が少ないし、また大きなことが出来そうにもない。水一杯でよろしい。『キリストの弟子だからというので』と言う語をレッテル付きのクリスチャンに限る必要はあるまい。天の父の子はことごとくキリストの弟子ではないか。誰にでも良い。毎日誰かに水一杯を飲ませよう。

祈祷
天の父よ、どうか誰を見てもあなたの子供であることを思わせて下さい。そして冷たい水一杯でも飲ませたいなと思う心を常に持たせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著182頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。6/21http://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2022/06/blog-post_21.html以来、クレッツマンの『聖書の黙想』からはすっかり遠ざかっていたが、次に接続する文章が以下のものである。ちょうどここ十日あまりの青木さんの引用聖句、また今日の引用聖句にも言及する文章で、短いがこの間の事情が鋭く要を得てまとめられていると思うので紹介する。

 そこでイエスは腰を下ろして、彼らにとってたいへん大切な教えを話された。キリストの御国は、弱い者は押しやられ、強い者本位のこの世の王国とは違っている。かしらであり偉い人とは、自分自身のことをあとまわしにして、他の人に仕えようとの熱意を持っている者にほかならない。この教えを主は、なんとうるわしく説明されたことだろうか。主は近くで遊んでいたと思われる一人の幼い子をとりあげ、腕に抱きながら、このような小さい者の一人を彼の名によって受けいれ、愛と配慮を注ぐことの方が、王国を支配することよりも偉大なのだ、それは主がこのようなわざを、主ご自身になされたものとして見られるからだ、と説かれたのである。

 ついでヨハネが主に告げた一つの意見が、別の教えを受けるきっかけとなった。弟子たちが、彼らの伝道旅行の途中で、使徒たちの仲間ではないのにイエスの名によって悪霊を追い出している一人の男に出会ったことがある。弟子たちは自分たちの仲間ではないという理由から、男にその行いをやめるように説いた。しかしイエスは彼らのこの態度を、誤った熱心の例と見なされた。この男は明らかに本当の信者の一人なのである。男はその師に、使徒たちと同じように仕えようとしていたのだ。これは、主がわたしの味方でない者は、わたしに反対するものであると言われた時とは違った場合なのである〈マタイ12・30参照〉。この男は弟子たちには従わないかも知れないがイエスに従う者の一人なのである。

 ある人々が、わたしたちの仲間にたまたま加わらないからと言って、その人たちを非クリスチャンとして非難したり退けたりすることのないように注意しよう。神ひとり心の奥をさばき給う。したがってこの場合には次の主の言葉がふさわしい。「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である」。大切なことは、彼がキリストの一人のしもべであったということだ。このことに関連して主は次のような真理を強調された。もし人が、キリストに従っている者に一杯の水を飲ませるほどの小さいことでも、そのことを主の名によって、また主につく者だとの理由からなしたならば、その人の行いは決して救いからもれることはないだろうと。

※連日の各地で40度を越す猛暑はまさに「水一杯」のありがたさを教える。しかし、「水一杯」にまつわる話は聖書中にいくつか見出される。さしずめ、エリヤのそれとイエスさまのそれがそれに該当するであろう。〈1列王記17・10、ヨハネ4・7〉。高校時代、通学は自転車だった。3、40分であったろうか。夏の日盛りの時、自転車を走らすのはしんどい。しかし、その通学路のちょうど真ん中あたりに、水が湧き出る場所があった。道端に自転車をとめ、走り寄っては水を一気に飲む。まさに生きた心地がしたものだ。ウクライナの戦火のうちに、気候変動の異常気象の中で熱波に悩まされる私たち人類ひとりひとりに主は語られる。「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」〈黙示22・17〉と。) 

2022年7月1日金曜日

悪霊を追い出す者への制止の是非(3)

しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。・・・わたしたちに反対しない者は、わたしの味方です。」(マルコ9・39〜40)

 この心を持とう。狭い自己を棄てて広い大きい自己に生きよう。自分の善でなくとも、自分に関係のない善であっても、それがあたかも自分のものであるのと同じに喜ぶようにならねばダメである。天の父は、一視同仁。誰の為した善でも喜んでおられる。たとい無断でイエスの名を用いて悪霊を追い出す者があったとしても、それを止める必要はないではないか。イエスの名を用いる心がすでにその人が味方であることを示しているのではないか。たといそうでないとしても彼が悪霊を敵としている以上は、同じ戦線に立っていることを示すものではないか。どちらにしてもヨハネの憤慨する必要はないと、教えられたのである。イエスは実に広い高い神の立場から凡てを見ている。

祈祷
天の父よ、いかにしても取り去りがたい自己執着を今少し私の心からはがらせて下さい。今少し広く高い眼をもって他人の善に親しみ、他人の幸福を喜び、他人の努力を讃する心を与えて下さい。アーメン

 (以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著182頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。昨日に引き続くA.B.ブルース〈1831〜1899〉の所説は以下の通りである。読者は最後まで忍耐強く読まれますように。ここにはイエスさまがいかに愛に富み給うかが余すところなく語られているし、また、御霊なる神様、イエスさまが教会のかしらであることを念頭に、目の前に現れている教会の分裂に苦しむ者に対する適切な示唆に富む論考が展開されている。改めてこの論考が19世紀の人の所産であることに驚く。

 悪霊を追い出す者を黙らせた十二弟子の行動には、おそらく二つの混じり合った動機があったろう。一つはねたみであり、もう一つは良心的なためらいである。思うに、彼らはキリストの名によって悪霊を追い出す力を独占したがっていたので、彼ら以外の者がキリストの名を用いるのを本能的に嫌ったのかもしれない。彼らにとって、たとい不可能ではないにしろ、彼らから離れている者が主に熱心に仕えることができるとは考えたくなかったのであろう。

 弟子たちがねたみに駆られて行動したかぎりにおいて、悪霊を追い出した者に対する彼らの行為は、つい最近、彼らの間で誰が一番偉いかと論争したことと道徳的に軌を一にするものだった。一見別々の様相を見せる二つの事例には、同じ高慢の精神がはっきりと現れていた。悪霊を追い出す者を黙らせることは、その尊大ぶりにおいて、自分たちの教会のみがキリストの教会であると排他的に主張することと類似している。自分たちの間の論争で、彼らは、名誉と権力の座を競う自己追求的な野心に燃えた聖職者の役をお粗末ながら演じたのである。ある時には、十二弟子は悪霊を追い出す人を見て、「われわれは主イエス・キリストによって公認された唯一の団体である」と言った。また、ある時には、互いに「われわれは御国の仲間で、王のしもべである。しかし、私は、あなたより高い地位を与えられ、高位聖職の座に着くにふさわしい」と言い合った。

 十二弟子の寛容のなさが良心的なためらいのゆえであったことに関しては、もっと多くの考察がなされてよい。誠実な良心の訴えは、たとい思い違いだとしても、いつも注意深く聞かれなければならない。「誠実な」と強調したのは、誠実ではない多くのためらいがあることを忘れるわけにはいかないからである。良心は、高慢で口論好きで頑固な人々によって、しばしば彼ら自身の私的な目的のために利用される。ある人が言うには、教理的論争について得々と語ることは「穏健の最大の敵である。このことは、人々のほんのささいな意見の相違を、あたかも根本的なもののように争わせる。神学のある点を深く研究していることを鼻にかける人々は、自分たちの評価を高めようと何らかの手段を講じるに違いない。そうすることが宗教上根本的なものだと言い張るのは、それが彼らの名声にとって根本的なものに外ならないからである」

 この鋭い批評は、教理のほかにある何ものかをよくとらえている。自説を頑固に主張する人々は、彼らの説を決定的にするために、何でもかでも宗教において根本的なものにしようとする。もし彼らがとことん我を通したなら、信仰や生活のささいな点で意見の合わない人々を教会から排斥する結果になるだろう。

 しかし、誠実なためらいというものもある。それは多くの人が想像するよりも一般的なものである。また未熟な段階での信仰熱心な生活には、不寛容な要求をしたり、裁くのに厳格過ぎたりする傾向がある。若い弟子の良心は、生木に火がついたようなもので、真っ赤な炎を上げて燃えるまでに至らず、煙を出してくすぶるだけである。この状態の良心しか持ち合わせていないキリスト者は、くすぶった火を取り扱うように扱われなければならない。すなわち、彼の良心がいぶる煙を追い払って明らかになり、愛にはぐくまれた、熱心という純粋で快適な炎に包まれるまで、彼の成長を待たなければならない。

 十二弟子が自分たちのしたことについて喜んで教えを受けようとしていたことから、彼らのためらいが誠実なものであった、とわかる。彼らが自分たちのしたことを主に話したのは、それが正しかったか正しくなかったか、主から教えられるためであった。良心の訴えを口実に使う人々は、そういうことはしないものである。

 弟子たちが誠実に求めた指示に対して、イエスは即座にそれを明快な判決のような形で、しかも理由を添えて与えられた。イエスはヨハネに、「やめさせることはありません。わたしたちに反対しない者は、わたしの味方です」と答えられた。

 寛容を勧めるこのような理由は、パリサイ人がイエスのことをベルゼブルの助けで悪霊を追い出していると非難した時、イエスの語られた別の金言を思い出させてくれる。この二つのことばは、表面的には矛盾しているように見える。一方は、重要なことは決定的に反対しないことであり、もう一方では、重要なことは決定的に賛成することである、と言っているように思われる。しかし、両者の根底にある真理によって、それらは調和を与えられている。その真理とは、霊的性格における基本的な事柄は心の傾向である、ということである。そこでイエスは次のように言われたのである。「もしある人の心がわたしとともにあるなら、その人は、本当にわたしの味方です。たとい、無知や失敗によって、あるいはわたしの仲間たちから遊離していることで、わたしに逆らっているように見えても、その人はわたしの味方です。」もう一方の場合、イエスは次のように言おうとされたのである。「ある人が〈パリサイ人のように〉心の中でわたしから離れているなら、その正統主義や熱心によって、彼が神の味方であるように思われても、本当はわたしに逆らっているのです。」

 今説明したことばの後に、マルコはその時イエスによって語られたことばとして、次のように書き加えている。「わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。」ここには、知恵と愛が結び合った声が聞かれる。「すぐあとで」と訳されている語に強調が置かれている。第一に、この語は、そういう場合が起こり得ることを認めている。歴史は、そういう場合が後に実際に起こったことを示している。ルカが告げるように、数人のユダヤ人の〈おそらく名をよく知られていた〉無頼漢が、悪霊を追い出すために、全然信じてもいないイエス・キリストの名を利用したところ、彼らがあまりにも商売的な魔よけ祈祷師であったので、悪霊のほうが彼らを軽蔑して、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ」と叫んだ。

 私たちの主は、そのようなことが起こるのを前もって知っておられ、また人間の徹底した堕落ぶりをも熟知しておられたので、ヨハネが引き合いに出した悪霊を追い出す者が尊敬に値しない動機でやっていた可能性を、お認めにならないわけにはいかなかったろう。が、そうは認めても、主はなお慎重に、ご自分の判断において、この場合は全く別であって、ご自分の名において奇蹟を行なった人がご自分のことを悪く言うことはない、と指摘しておられる。そして主は、だれかれをそのように罪深い者と簡単に信じてしまわないよう、弟子たちが充分気をつけることを願っておられる。ほかに決定的証拠が現れるまで、主は人々の外見的行為を誠実な信仰と愛の指標によって暖かく見ようとされた。

 ヨハネによって裁かれた事例に関して、イエスが語られた恵みに満ちた賢いことばは、以上のようなものだった。このイエスのことばから、すべての時代の教会に当てはまる、また、特に私たちの時代に当てはまる教訓が何か引き出せるだろうか。それは答えにくい質問である。というのは、福音書に記録されているような弟子たちの行為に対するイエスの判定には敬服させられても、特に自分たちの行為がかかっている事例に関してそこから引き出される推論については、キリスト者の間に多くの相違があるからである。しかしながら、次のような二、三の反省を引き出すことができよう。

 (1) 私たちは、この思慮と愛に満ちた偉大な教師〈イエス〉のことばから、外面の指標のみに基づいて他の人の霊的状態を性急に判定しないように、よく注意しなければならないことを学ぶ。ローマ教会のように、「私たちの交わりの外にあるなら救いの可能性はない」などと言ってはならない。むしろ、腐敗した交わりの中においても、その大半が燃えやすい材料であるとしても、そこには真の土台の上に建てられている多くの人がいることを認めるべきである。いや、キリストは、すべての教会の囲いの外にもたくさんの友を持っておられる。ナタナエルのように、「ナザレから何の良いものが出るだろう」と言ってはいけない。最も良いものが全く思いがけないところから出現することがある、という事実を思い起こす必要がある。

 見知らぬ旅人をもてなすことを忘れてはならない。ある人は、そうしたので、それと気づかずに御使いを迎え入れたのである。ささいなことや気まぐれから「私たちの仲間ではない」と叫ぶことによって、あなたは神を試みる結果になっていることを心に留めよ。あなたが破門する人々に、神は聖霊を与えておられるのである。あなたの高ぶりや鼻もちならぬ排他主義のゆえに、神の力はあなたから去り、あなたの誇る信条は獄に投じられるだろう。あなたは聖徒の交わりから締め出され、獄中に幽閉されながら、牢の窓越しに神の民が自由に闊歩するのを見て、無念さを味わうことであろう。

 (2) 「やめさせることはありません」という主の判決に照らして、教会史の膨大なページをひもとく時、そこに支配しているものが主の精神であるよりも十二弟子の精神であるのを見て、悲しまざるを得ない。もしも、キリストの名をもって呼ばれる人々のうちにキリストの思いがもっと多く宿っていたなら、教会史の多くの事柄は全く別の様相を呈していただろう、と断言できるほどである。分離主義、検閲、非国教徒への不寛容、迫害がこれほどまでに広がらなかったに違いない。非国教徒秘密集会法や五マイル法が、英国議会の法令全書の名を汚すこともなかったであろう。べッドフォード刑務所が、『天路歴程』の著名な夢想家〈ジョン・バンヤン〉を囚人として迎えることもなかったであろう。その感動的なことばで多くの人々に新しい霊的生命を注ぎ込んだバクスターやアンクラムのリヴィングストン、そのほか幾千という人が、彼らの教区や生地から追放され、福音宣教を厳しく禁じられることもなかったであろう。それどころか、彼らが私たちと彼らの子孫のために多大な犠牲を払って買い取った寛容令の恩恵を、彼ら自身が享受できたことであろう。

 (3) 教会の分裂状態は、これまでずっと善良な人々を悲しませる原因となってきた。また、種々の合同計画によってこの悪を矯正しようとする試みがなされてきた。宗教改革の時以来、プロテスタンティズムの名を汚し続けている分裂の裂け目をいやそうと誠実に努力してきたすべての人々に、私たちは心からの同情と熱心な祈りを寄せることを惜しまない。しかし私たちは、人間の弱さのゆえに、そのような企てが失敗しやすい事実を見落としてはならない。教会という共同体は、種々異なった気質やキリスト者としての成長段階の異なる人々をかかえている。その共同体の全体が、交わりにおいて全く同じ見方をすることは、まことに至難のわざなのである。

 では、当面のキリスト者のなすべきことは何だろうか。悪霊を追い出す者について主が示された判断から学ぶことがある。仲間ではない人々が自分と同じ教会組織への加入を許されなくても、私たちはなお、彼らを同志の弟子、また同労者として心から認めよう。そして、同じ教会員であっても、その精神と生活においてキリストに敵対している人々よりも、教会の所属はいかにあれ、真にキリストを愛している人々に対して、あらゆる合法的な方法で、いっそう大きな配慮と関心を示すことにしよう。そうすれば、愛する兄弟たちと離れていても、私たちは宗派分立論者ではないという確信を得て、慰めを与えられるだろう。教会の分裂状態についても、それを私たちが願っているのではなく、ただやむを得ないこととして、ひたすらそれに耐えているのだと語ることができよう。

 多くの宗教的な人々は、この点で誤りを犯している。使徒信条の中の「聖なる公同の教会」と「聖徒の交わり」の二項を信じないキリスト者は、ほとんどいない。彼らは自分たちの交わりの囲いの外にいる人々を、ほとんど気にかけていないし、あるいは全く無視している。彼らは最も模範的に兄弟としての新設を示すが、愛を持っていない。彼らの教会は社交クラブであり、そこで選ばれた人々だけの交わりを楽しんでいる。彼らの体質に、そのような意見や、気まぐれな趣味や教会政治はちょうどぴったりである。この世のかなたにあるものはすべて、激しい嫌悪の対象でこそないが、冷ややかな無関心をもって扱われる。それは、私たちの間にはびこる律法主義の精神の具体的な現われの一つである。採択の精神は一種の公同的精神となっている。律法的精神は一種の分派的精神であり、原則的なものをむやみに増やし、取るに足らぬことを大事な原則に仕立て、常に新しい宗派やクラブを作り出す。

 ところで、教会的であってもなくても、クラブは華やかで楽しいものである。しかし、そのクラブの上に、すべてのクラブを包含するものとして、大きなキリスト教共同体があることを忘れてはならない。この事実は、教会生活が単なる愚劣な行動の場とならないようにするため、いっそう明確に認められるべきだろう。そのような危険を避けるには、二つの事柄のうち一つを実行しなければならない。一方で、宗教的な人々は単なる教派主義のクラブ的交わりを溺愛する感情を克服しなければならない。さもなければ、ある種の同盟会議が分派主義との平衡を保つものとして起こされなければならない。その同盟において、すべての分派は、道徳、宣教、教育、主要な真理の弁証などに関する重要な公同的問題について真剣な討議をするために、共同の集会場を求めるだろう。

 そのような会議は、その構成において多くの課題をかかえている。古代の同盟会議において、それに参加する人々はアテネ人あるいはスパルタ人としてではなく、ギリシヤ人として知られていた。今日の私たちの同盟会議においても、それに参加する人々は監督派、長老派、会衆派、国教徒、非国教徒としてではなく、キリスト者としてのみ知られるであろう。公同性を希求する感情を可視的に表現しようとして、最近生まれた「福音同盟」のような団体がそれである。ただし、現存のすべての教会組織から遊離した人々によって後援されたり、その団体が一つの新しい教会に代わるように、独断で決められたような組織ではなく、それぞれ異なる教派に属し、各教派から正式に選出され任命された代表者によって構成されなければならない。

 この教会の交わりをクラブと見る説について、もう一つ論評しておきたい。細かく検討すると、その説は少なくとも一つの目的を果たしている。それはキリスト者の群れを少数の仲間に解体し、彼らを二人か三人ずつ集まるようにさせる。残念ながら、それでは二人または三人の集まりに約束された祝福は与えられない。イエスの御霊は、気ままで独断的な人々の集まりにではなく、聖徒の大きな共同体、特に自分が属している群れの部分以上に全体を愛する人々の心に、住んでおられる。そのような人々に対して、教会のかしらである主は、豊かな恵みを与え、杉の木のように世の水準のはるか上にそびえ立たせ、この時代の闘争の中で絶えず影響を及ぼす道徳的な力で満たすことによって、約束を成就してくださる。そして、この時代の闘争を楽しんでいた人々はやがて忘却のかなたに沈んで行くのである。)