2022年7月1日金曜日

悪霊を追い出す者への制止の是非(3)

しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。・・・わたしたちに反対しない者は、わたしの味方です。」(マルコ9・39〜40)

 この心を持とう。狭い自己を棄てて広い大きい自己に生きよう。自分の善でなくとも、自分に関係のない善であっても、それがあたかも自分のものであるのと同じに喜ぶようにならねばダメである。天の父は、一視同仁。誰の為した善でも喜んでおられる。たとい無断でイエスの名を用いて悪霊を追い出す者があったとしても、それを止める必要はないではないか。イエスの名を用いる心がすでにその人が味方であることを示しているのではないか。たといそうでないとしても彼が悪霊を敵としている以上は、同じ戦線に立っていることを示すものではないか。どちらにしてもヨハネの憤慨する必要はないと、教えられたのである。イエスは実に広い高い神の立場から凡てを見ている。

祈祷
天の父よ、いかにしても取り去りがたい自己執着を今少し私の心からはがらせて下さい。今少し広く高い眼をもって他人の善に親しみ、他人の幸福を喜び、他人の努力を讃する心を与えて下さい。アーメン

 (以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著182頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。昨日に引き続くA.B.ブルース〈1831〜1899〉の所説は以下の通りである。読者は最後まで忍耐強く読まれますように。ここにはイエスさまがいかに愛に富み給うかが余すところなく語られているし、また、御霊なる神様、イエスさまが教会のかしらであることを念頭に、目の前に現れている教会の分裂に苦しむ者に対する適切な示唆に富む論考が展開されている。改めてこの論考が19世紀の人の所産であることに驚く。

 悪霊を追い出す者を黙らせた十二弟子の行動には、おそらく二つの混じり合った動機があったろう。一つはねたみであり、もう一つは良心的なためらいである。思うに、彼らはキリストの名によって悪霊を追い出す力を独占したがっていたので、彼ら以外の者がキリストの名を用いるのを本能的に嫌ったのかもしれない。彼らにとって、たとい不可能ではないにしろ、彼らから離れている者が主に熱心に仕えることができるとは考えたくなかったのであろう。

 弟子たちがねたみに駆られて行動したかぎりにおいて、悪霊を追い出した者に対する彼らの行為は、つい最近、彼らの間で誰が一番偉いかと論争したことと道徳的に軌を一にするものだった。一見別々の様相を見せる二つの事例には、同じ高慢の精神がはっきりと現れていた。悪霊を追い出す者を黙らせることは、その尊大ぶりにおいて、自分たちの教会のみがキリストの教会であると排他的に主張することと類似している。自分たちの間の論争で、彼らは、名誉と権力の座を競う自己追求的な野心に燃えた聖職者の役をお粗末ながら演じたのである。ある時には、十二弟子は悪霊を追い出す人を見て、「われわれは主イエス・キリストによって公認された唯一の団体である」と言った。また、ある時には、互いに「われわれは御国の仲間で、王のしもべである。しかし、私は、あなたより高い地位を与えられ、高位聖職の座に着くにふさわしい」と言い合った。

 十二弟子の寛容のなさが良心的なためらいのゆえであったことに関しては、もっと多くの考察がなされてよい。誠実な良心の訴えは、たとい思い違いだとしても、いつも注意深く聞かれなければならない。「誠実な」と強調したのは、誠実ではない多くのためらいがあることを忘れるわけにはいかないからである。良心は、高慢で口論好きで頑固な人々によって、しばしば彼ら自身の私的な目的のために利用される。ある人が言うには、教理的論争について得々と語ることは「穏健の最大の敵である。このことは、人々のほんのささいな意見の相違を、あたかも根本的なもののように争わせる。神学のある点を深く研究していることを鼻にかける人々は、自分たちの評価を高めようと何らかの手段を講じるに違いない。そうすることが宗教上根本的なものだと言い張るのは、それが彼らの名声にとって根本的なものに外ならないからである」

 この鋭い批評は、教理のほかにある何ものかをよくとらえている。自説を頑固に主張する人々は、彼らの説を決定的にするために、何でもかでも宗教において根本的なものにしようとする。もし彼らがとことん我を通したなら、信仰や生活のささいな点で意見の合わない人々を教会から排斥する結果になるだろう。

 しかし、誠実なためらいというものもある。それは多くの人が想像するよりも一般的なものである。また未熟な段階での信仰熱心な生活には、不寛容な要求をしたり、裁くのに厳格過ぎたりする傾向がある。若い弟子の良心は、生木に火がついたようなもので、真っ赤な炎を上げて燃えるまでに至らず、煙を出してくすぶるだけである。この状態の良心しか持ち合わせていないキリスト者は、くすぶった火を取り扱うように扱われなければならない。すなわち、彼の良心がいぶる煙を追い払って明らかになり、愛にはぐくまれた、熱心という純粋で快適な炎に包まれるまで、彼の成長を待たなければならない。

 十二弟子が自分たちのしたことについて喜んで教えを受けようとしていたことから、彼らのためらいが誠実なものであった、とわかる。彼らが自分たちのしたことを主に話したのは、それが正しかったか正しくなかったか、主から教えられるためであった。良心の訴えを口実に使う人々は、そういうことはしないものである。

 弟子たちが誠実に求めた指示に対して、イエスは即座にそれを明快な判決のような形で、しかも理由を添えて与えられた。イエスはヨハネに、「やめさせることはありません。わたしたちに反対しない者は、わたしの味方です」と答えられた。

 寛容を勧めるこのような理由は、パリサイ人がイエスのことをベルゼブルの助けで悪霊を追い出していると非難した時、イエスの語られた別の金言を思い出させてくれる。この二つのことばは、表面的には矛盾しているように見える。一方は、重要なことは決定的に反対しないことであり、もう一方では、重要なことは決定的に賛成することである、と言っているように思われる。しかし、両者の根底にある真理によって、それらは調和を与えられている。その真理とは、霊的性格における基本的な事柄は心の傾向である、ということである。そこでイエスは次のように言われたのである。「もしある人の心がわたしとともにあるなら、その人は、本当にわたしの味方です。たとい、無知や失敗によって、あるいはわたしの仲間たちから遊離していることで、わたしに逆らっているように見えても、その人はわたしの味方です。」もう一方の場合、イエスは次のように言おうとされたのである。「ある人が〈パリサイ人のように〉心の中でわたしから離れているなら、その正統主義や熱心によって、彼が神の味方であるように思われても、本当はわたしに逆らっているのです。」

 今説明したことばの後に、マルコはその時イエスによって語られたことばとして、次のように書き加えている。「わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。」ここには、知恵と愛が結び合った声が聞かれる。「すぐあとで」と訳されている語に強調が置かれている。第一に、この語は、そういう場合が起こり得ることを認めている。歴史は、そういう場合が後に実際に起こったことを示している。ルカが告げるように、数人のユダヤ人の〈おそらく名をよく知られていた〉無頼漢が、悪霊を追い出すために、全然信じてもいないイエス・キリストの名を利用したところ、彼らがあまりにも商売的な魔よけ祈祷師であったので、悪霊のほうが彼らを軽蔑して、「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどおまえたちは何者だ」と叫んだ。

 私たちの主は、そのようなことが起こるのを前もって知っておられ、また人間の徹底した堕落ぶりをも熟知しておられたので、ヨハネが引き合いに出した悪霊を追い出す者が尊敬に値しない動機でやっていた可能性を、お認めにならないわけにはいかなかったろう。が、そうは認めても、主はなお慎重に、ご自分の判断において、この場合は全く別であって、ご自分の名において奇蹟を行なった人がご自分のことを悪く言うことはない、と指摘しておられる。そして主は、だれかれをそのように罪深い者と簡単に信じてしまわないよう、弟子たちが充分気をつけることを願っておられる。ほかに決定的証拠が現れるまで、主は人々の外見的行為を誠実な信仰と愛の指標によって暖かく見ようとされた。

 ヨハネによって裁かれた事例に関して、イエスが語られた恵みに満ちた賢いことばは、以上のようなものだった。このイエスのことばから、すべての時代の教会に当てはまる、また、特に私たちの時代に当てはまる教訓が何か引き出せるだろうか。それは答えにくい質問である。というのは、福音書に記録されているような弟子たちの行為に対するイエスの判定には敬服させられても、特に自分たちの行為がかかっている事例に関してそこから引き出される推論については、キリスト者の間に多くの相違があるからである。しかしながら、次のような二、三の反省を引き出すことができよう。

 (1) 私たちは、この思慮と愛に満ちた偉大な教師〈イエス〉のことばから、外面の指標のみに基づいて他の人の霊的状態を性急に判定しないように、よく注意しなければならないことを学ぶ。ローマ教会のように、「私たちの交わりの外にあるなら救いの可能性はない」などと言ってはならない。むしろ、腐敗した交わりの中においても、その大半が燃えやすい材料であるとしても、そこには真の土台の上に建てられている多くの人がいることを認めるべきである。いや、キリストは、すべての教会の囲いの外にもたくさんの友を持っておられる。ナタナエルのように、「ナザレから何の良いものが出るだろう」と言ってはいけない。最も良いものが全く思いがけないところから出現することがある、という事実を思い起こす必要がある。

 見知らぬ旅人をもてなすことを忘れてはならない。ある人は、そうしたので、それと気づかずに御使いを迎え入れたのである。ささいなことや気まぐれから「私たちの仲間ではない」と叫ぶことによって、あなたは神を試みる結果になっていることを心に留めよ。あなたが破門する人々に、神は聖霊を与えておられるのである。あなたの高ぶりや鼻もちならぬ排他主義のゆえに、神の力はあなたから去り、あなたの誇る信条は獄に投じられるだろう。あなたは聖徒の交わりから締め出され、獄中に幽閉されながら、牢の窓越しに神の民が自由に闊歩するのを見て、無念さを味わうことであろう。

 (2) 「やめさせることはありません」という主の判決に照らして、教会史の膨大なページをひもとく時、そこに支配しているものが主の精神であるよりも十二弟子の精神であるのを見て、悲しまざるを得ない。もしも、キリストの名をもって呼ばれる人々のうちにキリストの思いがもっと多く宿っていたなら、教会史の多くの事柄は全く別の様相を呈していただろう、と断言できるほどである。分離主義、検閲、非国教徒への不寛容、迫害がこれほどまでに広がらなかったに違いない。非国教徒秘密集会法や五マイル法が、英国議会の法令全書の名を汚すこともなかったであろう。べッドフォード刑務所が、『天路歴程』の著名な夢想家〈ジョン・バンヤン〉を囚人として迎えることもなかったであろう。その感動的なことばで多くの人々に新しい霊的生命を注ぎ込んだバクスターやアンクラムのリヴィングストン、そのほか幾千という人が、彼らの教区や生地から追放され、福音宣教を厳しく禁じられることもなかったであろう。それどころか、彼らが私たちと彼らの子孫のために多大な犠牲を払って買い取った寛容令の恩恵を、彼ら自身が享受できたことであろう。

 (3) 教会の分裂状態は、これまでずっと善良な人々を悲しませる原因となってきた。また、種々の合同計画によってこの悪を矯正しようとする試みがなされてきた。宗教改革の時以来、プロテスタンティズムの名を汚し続けている分裂の裂け目をいやそうと誠実に努力してきたすべての人々に、私たちは心からの同情と熱心な祈りを寄せることを惜しまない。しかし私たちは、人間の弱さのゆえに、そのような企てが失敗しやすい事実を見落としてはならない。教会という共同体は、種々異なった気質やキリスト者としての成長段階の異なる人々をかかえている。その共同体の全体が、交わりにおいて全く同じ見方をすることは、まことに至難のわざなのである。

 では、当面のキリスト者のなすべきことは何だろうか。悪霊を追い出す者について主が示された判断から学ぶことがある。仲間ではない人々が自分と同じ教会組織への加入を許されなくても、私たちはなお、彼らを同志の弟子、また同労者として心から認めよう。そして、同じ教会員であっても、その精神と生活においてキリストに敵対している人々よりも、教会の所属はいかにあれ、真にキリストを愛している人々に対して、あらゆる合法的な方法で、いっそう大きな配慮と関心を示すことにしよう。そうすれば、愛する兄弟たちと離れていても、私たちは宗派分立論者ではないという確信を得て、慰めを与えられるだろう。教会の分裂状態についても、それを私たちが願っているのではなく、ただやむを得ないこととして、ひたすらそれに耐えているのだと語ることができよう。

 多くの宗教的な人々は、この点で誤りを犯している。使徒信条の中の「聖なる公同の教会」と「聖徒の交わり」の二項を信じないキリスト者は、ほとんどいない。彼らは自分たちの交わりの囲いの外にいる人々を、ほとんど気にかけていないし、あるいは全く無視している。彼らは最も模範的に兄弟としての新設を示すが、愛を持っていない。彼らの教会は社交クラブであり、そこで選ばれた人々だけの交わりを楽しんでいる。彼らの体質に、そのような意見や、気まぐれな趣味や教会政治はちょうどぴったりである。この世のかなたにあるものはすべて、激しい嫌悪の対象でこそないが、冷ややかな無関心をもって扱われる。それは、私たちの間にはびこる律法主義の精神の具体的な現われの一つである。採択の精神は一種の公同的精神となっている。律法的精神は一種の分派的精神であり、原則的なものをむやみに増やし、取るに足らぬことを大事な原則に仕立て、常に新しい宗派やクラブを作り出す。

 ところで、教会的であってもなくても、クラブは華やかで楽しいものである。しかし、そのクラブの上に、すべてのクラブを包含するものとして、大きなキリスト教共同体があることを忘れてはならない。この事実は、教会生活が単なる愚劣な行動の場とならないようにするため、いっそう明確に認められるべきだろう。そのような危険を避けるには、二つの事柄のうち一つを実行しなければならない。一方で、宗教的な人々は単なる教派主義のクラブ的交わりを溺愛する感情を克服しなければならない。さもなければ、ある種の同盟会議が分派主義との平衡を保つものとして起こされなければならない。その同盟において、すべての分派は、道徳、宣教、教育、主要な真理の弁証などに関する重要な公同的問題について真剣な討議をするために、共同の集会場を求めるだろう。

 そのような会議は、その構成において多くの課題をかかえている。古代の同盟会議において、それに参加する人々はアテネ人あるいはスパルタ人としてではなく、ギリシヤ人として知られていた。今日の私たちの同盟会議においても、それに参加する人々は監督派、長老派、会衆派、国教徒、非国教徒としてではなく、キリスト者としてのみ知られるであろう。公同性を希求する感情を可視的に表現しようとして、最近生まれた「福音同盟」のような団体がそれである。ただし、現存のすべての教会組織から遊離した人々によって後援されたり、その団体が一つの新しい教会に代わるように、独断で決められたような組織ではなく、それぞれ異なる教派に属し、各教派から正式に選出され任命された代表者によって構成されなければならない。

 この教会の交わりをクラブと見る説について、もう一つ論評しておきたい。細かく検討すると、その説は少なくとも一つの目的を果たしている。それはキリスト者の群れを少数の仲間に解体し、彼らを二人か三人ずつ集まるようにさせる。残念ながら、それでは二人または三人の集まりに約束された祝福は与えられない。イエスの御霊は、気ままで独断的な人々の集まりにではなく、聖徒の大きな共同体、特に自分が属している群れの部分以上に全体を愛する人々の心に、住んでおられる。そのような人々に対して、教会のかしらである主は、豊かな恵みを与え、杉の木のように世の水準のはるか上にそびえ立たせ、この時代の闘争の中で絶えず影響を及ぼす道徳的な力で満たすことによって、約束を成就してくださる。そして、この時代の闘争を楽しんでいた人々はやがて忘却のかなたに沈んで行くのである。)

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