2022年7月11日月曜日

主にある結婚観(下)

人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。(マルコ10・9)

 神を信じない者には本当の結婚はない。本当の人生がないのだから、本当の結婚のあるはずはない。恋愛は結婚の基本条件ではない。神によりて相識り相信じ相相するに至ることが条件である。ホームを造るのは宗教的事業である。ホームは三人で造る。神と男と女とで造る。神の前に二人が互いに謙って自己に不足したものを半身とするところの人に認めて行くのである。

 男と女とは多くの場合にものの見方が違う。感じ方が違う。だから意見の違う場合が多い。この相違を争いの種にする家庭もあるであろう。この相違を互いに補充するの材料とする家庭もあるであろう。神の前に互いに謙る時に相違する意見や感じ方がかえって相互の人格の補充となることを見出す。少なくとも見出さんとする。

 この練習は『人は・・・引き離してはなりません』との信念の上に立つ者でなければ出来ない。ソクラテスが怒りやすい妻クサンチッペの乱暴を人格修養の材料と見たのは興味深い。

祈祷
神よ、あなたは『結び合わせ』給います。あなたは調和を愛し給います。全く異なる色彩が調和するのはどんなに美しいことでしょう。あなたは人を男女に造って美しい調和の世界を織り出さしめられます。願わくは、先ずホームの中にあなたの天国を来らせてください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著192頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。さて、主の結婚観を詳細に福音書は書き留めており、マルコだけでなく、マタイ、ルカを読むことにより理解は深まる。その助けになる文章を、David SmithもA.B.ブルースもかなり詳細に描いている。ここでは俯瞰的に捉えているA.B.ブルースの文章の一部を紹介する。「十二使徒の訓練」下巻の第16章 自己犠牲についての教え 1 完全への勧め 〈マタイ19・1〜26、マルコ10・1〜27、ルカ18・15〜27〉からの抜粋引用である。同書7頁から

 最終的にガリラヤを後にしたイエスは、残された短い生涯における居住地と活動の舞台を、ヨルダン川下流の東方の地域に求められた。イエスはその宣教の働きを開始した場所でそれを終えられたと言えよう。バプテスマを受けることによって聖なる務めへの献身をあかしし、また最初の弟子たちに出会ったその場所において、イエスは病人をいやし、天の御国の高遠な真理を教えられたのである。

 その生涯の終わり近くに行われたペレヤ訪問は、それに付随する多くの出来事を別にしても、それ自体非常に興味深く、また意義深い事実である。〈中略〉そこには様々な目的から「多くの人々がイエスのところに来た」。パリサイ人たちが来たのは、結婚と離婚に関する面倒な質問でイエスをわなにかけるためであった。

 「パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。『何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっていることでしょうか。』」〈マタイ19・2〉この質問にイエスは、まず、離婚は配偶者の不貞によってしか正当化されないという基本原則を示し、モーセの律法において反対のことが言われたのは人々のかたくなな心に対する融通処置にすぎない、と説き明かすことによって答えられた。弟子たちはこの答えを聞くと、彼らの意見をさしはさんだ。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」〈マタイ19・10〉

 主の見解は、彼らにとっても厳格すぎるように思われた。その見解は、互いの気性が合わないことや、無意識の嫌悪、習慣の不一致、宗教上の相違、親族間の反目などといったことを無視していた。彼らは、そのような生涯にわたる取り決めに身を任すべきか、あるいは、結婚生活をせずに苦難の太海を避けて通る方が得策かどうか自問することが、果たして人間にうまくできるだろうかと思った。

 多分そんなような動機に関すると見られる弟子たちの即席の意見は、決して思慮のあるものではなかった。だが、イエスがそれを頭から否認なさらなかったということに気づかされる。イエスは、独身をよしとする感情に同情的に語られた。あたかも、結婚しないことは、より良い、より思慮のある道であるが、大多数の人には実行できないことなので、それは誰にでも要求されるものではないかのように。「しかし、イエスは言われた。『そのことばは、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。』」〈マタイ19・11〉

 それからイエスは、何らかの理由で結婚しないでいる人々のケースを数え上げていきながら、自発的に、高遠かつきよい動機から家族関係の慰めを拒否した人々のことをはっきりと是認された。「天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。」〈マタイ19・12〉

 こうしてイエスは、最後に、そうするように召命を感じ、またそれが可能と感じる者はそうすべきであることを弟子たちに理解させた。イエスは言われた。「それができる者はそれを受け入れなさい」〈マタイ19・12〉と。このことばは次のことを暗示している。多くの人はそれを受け入れられない。結婚生活の様々の障害を耐え忍ぶことは、たとい結婚の義務についての最も厳格な考え方のもとでさえ、独身の状態で完全な貞節を保つことに比べればはるかに容易である。しかし、天の御国のために自分から独身者となることができる人は幸いである。多くの困難を避けられるだけでなく、余計な心遣いから解放され、余念なく御国に仕えることができるからである。

※実はこの後、実に11頁にわたる詳細な論が提供されているが、現在の引用者にはまだ理解できないところがあるので思い切ってカットした。) 

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