2010年12月1日水曜日

十九、断頭台(上)

(Vogelbeere in Salzburg by K.Aotani)
(久しく中断していた『近江の兄弟』の続きを、ほぼ半年振りに書き写す。第3回に「ヴォーリズさんの胸中には、如何にして湖畔の住民八十万に、天地に唯一の神あり、ただ一人の救い主イエス・キリストがある事を伝える事ができるであろうかという大問題が、潜んでいたのである。」と書かれてあったが、彼の思いは主イエス様によって嘉納され、滋賀商業の生徒の中に福音を受け入れる者が次々起こされた。しかしその後、ヴォーリズさんはその福音伝道のゆえに滋賀商業の英語教師の職を追われる。県から免職にされたからである。そして自ら設計し建設した青年会館に起居する。)

『真理は永久に断頭台に据えられ、
醜悪は永久に王座を占む。
されど断頭台は未来を揺り動かすなり。
未知の闇には、暗きあたりに神立ち給い、
神の者等を守り給わん』(ローウェル)

「あのように長くふりかざされていた刃は、遂におちてきた。しかし、わたしたちの事業は、収入が絶えたのみでは終わりとならない。わたしの心は壊かれない。その理由は『神を愛する者にはすべてのこと働きて益をなす』と聖書にあるではないか。『正義は正義だ。故に神は神である。正義は勝利者である。疑いは神に対する不忠である。気おくれするのは、罪ではないか』とだれかもいっている。

神は、わたしにこの問題を解決する光栄を担わせてくださったのだ。わたしは、今、驚くべき機会を目のあたりに見る。わたしが存在すること、生活することに、少しでも意義があるならば今やそれを発見するときがきた。

わたしは希望をもって出発するのだ。そして見えざる神にたよるのだ。失敗すれば、わたしは倒れてやむ。しかし、世の人はわたしが背後に傷をうけて、逃げ死したのでないことだけは疑う者があるまい。わたしがもし成功すれば、近江の国は愛の福音を聞くのだ。」

ヴォーリズさんは、こんな悲壮な文章を書いた。そして明治40年(1907)の4月から、THE OMI MUSTARD SEED 「近江の芥(からし)種」と命名した英文月刊雑誌を、手紙に代えて米国その他の友人に送ることになった。

わたしはヴォーリズさんと共同生活をすることに決めたので、まとめた行李をといて、相変わらず学生時代と同じように、淋しい青年会館に住んだ。そして4月を迎えた。

4月になると、東京で万国キリスト教学生大会があって、ヴォーリズさんとわたしとは本部より招待されて出席した。ふたりは三等席の一隅に、小さくなって上京した。途中、夜中の12時ごろから車中がこみあってきたので、相並んで座ることにした。そして一時間交代に、お互いのひざまくらを提供し、ひとりはひとりの安眠を守る約束をして、寝たり起きたりしていると、向かい座席の客が、
「いったい、この異人さんは、あなたのなににあたる人なのですか」
とおもわず大声に聞いたので、わたしは往生して一言もなかった。
神田の青年会館で開かれた万国キリスト教学生大会では、ヴォーリズさんはオルガンをひき、わたしは地下室で日本に関する書籍を売った。

大会が済んで帰ってくると、一通の手紙がふたりを待っていた。ヴォーリズさんが開封すると、中から金50円のかわせ券がでてきた。そして手紙には
「このかわせ券は、無名の友人よりヴォーリズ氏の生活費として、今後、毎月送られるものです。キリストの福音のため大いに自重してください」
とあり、手紙の差出人は、京都キリスト教青年会館の主事フェルプス氏であった。

ふたりは涙をもって神に感謝した。そして、わたしの毎月17円の学資を加えて金67円で生活することになった。そうこうしているうちに、各地の学校よりヴォーリズ氏を英語教師として招いてきた。京都の同志社はもちろん、(旧制)高等学校から滋賀商業学校以上の給料をもって迎えにきた。しかし、ヴォーリズさんはわたしとふたりで毎月67円の生活を捨てなかった。

(『近江の兄弟』吉田悦蔵著75~78頁より引用)

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