2010年12月2日木曜日

十九、断頭台(下)

(初冬の琵琶湖、比良山系を対岸に仰いで 2009.12.6)
その生活状態は、全く、昔の物語にある籠城のそれであった。外出すれば、「免職の異人」と、ののしる声がきこえる。そして後任としてきた外国人雇教師は、水夫あがりの酒飲みで、太いステッキに犬をつれたりして町を散歩する。ときには、怪しい日本の女も町にくるという有様だ。

がらんとした青年会館に、ヴォーリズさんとわたしは謄写版を使って、卒業した信仰の友へ、毎月日英両文の「月報」を印刷して、送ることと、朝から夕方まで、読書したり、水彩画を画いたり、石油ストーブをつついて自炊したりした。

ときには、おかずに困って、学校の寄宿舎から、うすぎたない小僧がもってくるさげ箱にいれた豆腐や油あげ、小あゆのあめだき、サイラの乾物をふたりで食べた。わたしはヴォーリズさんがそんなものを箸で口に運ぶのをみて、涙を落としたことが、たびたびあった。

5月になると、6人の学生がきて青年会館に下宿ずまいをすることになた。ヴォーリズさんの国の人たちが同情して送金してくれる金が、毎月すこしずつくるので、夏前から掃除夫兼料理人を雇うことになった。そして、サラダ油の代わりに、滋養分に富むからというので、バナナ、りんご、みかんのフルーツ・サラダに、たらの肝油をかけてだされたり、生たまごは毒だと思ったのか、アイスクリームをつくらせると、焦げくさくてしかたのないものなどを食わされていた。

わたしはある日、外国の雑誌で、かえるの足のフライがうまいという記事を読んだので、さっそく実験することに相談がまとまった。それで、百姓の子供に一かご十銭で、三かごのかえるを捕らしにやり、持ってきたものを、みな足をはずして、新米の料理人に油で揚げにさせた。そして舌鼓をうった。が、その翌日、
「吉田さん、たいへんです。ちょっときてください」
とコックの呼ぶ声に階段をおりてゆくと、真っ赤な顔にけわしい人相をした、八幡町雇の掃除人夫がどなっていた。
「なんぼ、ごみ取りのおれでも、かえるの腹ばかりのごもくは取らんぞ、オイッ、コラッ、コックたら、クックたらぬかす、板場! なんとか返事せい」
わたしは頼んで、二十銭の銀貨でかえるの死骸をかたずけてもらった。

ヴォーリズさんはもう八幡でなにもすることができなくなった。それで毎日聖書の研究と詩作と製図の練習にふけるほか、求められるままに、彦根、長浜、水口などの教会の応援をしたりして明治40年(1907)はなんのなすところもなく終わってしまった。
わたしは相変わらず、英語の勉強をしたり、通訳をしたり、製図のけいこを手伝ったりした。

(『近江の兄弟』吉田悦蔵著78~80頁)

明治40(1907)年はヴォーリズさんたちにとって忍従の年となったようだ。聖書には「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(1ペテロ5:5~6)とある。

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