2010年12月9日木曜日

二十、酒飲み

(三条大橋 photo by K.Aotani)
(前略)わたしは、明治40年(1907)の暮れに、ヴォーリズさんと相談して、しばらく神戸の家に帰り、商業の実務にあたって経験をえてから、再び事を共にするという話がまとまって、41年(1908)の一月一日に八幡を去った。そして、自宅の商業に身をいれたり、後に三井物産会社の社員になったりした。またときに、神戸の諸教会で説教を頼まれたり、青年会の英語教師を勤めたりして、42年(1909)の暮れまでヴォーリズさんとは二ヶ月に一回ぐらい神戸から八幡に通うくらいの連絡をとって過ごしてしまった。わたしが去ったあとへ、例の酒飲みのXがひょうぜんとヴォーリズさんのもとに帰ってきて、41年(1908)ごろから通訳になったり、事務員になったりしていた。ところが、今ひとりKという青年がある。

彼は、八幡の遊郭で育った乱暴青年だ。(中略)明治38年(1905)の秋の終わりごろであったと思うが、ある水曜日、バイブル・クラスに珍客があった。それはK君だった。酒を召し上がったのか、顔を真っ赤にして、臭い鼻息を手で押しかくして、入口に立っていた。「K君、やあ、きたまえ。こっちへ入りたまへ」といってだれかが引っぱりこんだ。ところで、ヴォーリズさんが例の赤シャツを着たままにこにこしながら、気をきかしてわざと彼に後ろの暗い席を与えた。

このK君が痛快な男らしい青年であって、思い切りよく、たばこを捨てる、酒をやめる、キリスト信者になる、とうとう遊郭に自分の家があるのは不愉快だといいだして、39年(1906)に卒業すると、しばらくヴォーリズさんと同居した。そしてその書記をやっていたが、同じ年の夏前にヴォーリズさんと衝突して、「出ていってやるぞ」と一言を残して大阪に行ってしまった。そして綿問屋や雑貨店あるいは大阪府警察部などに雇われて、痛快な歯切れのよい奉公をやっていたが、その年の暮れから一年志願兵で大津の連隊に入営していた。

ヴォーリズさんは、陸軍歩兵少尉になったK君を、再び招いて、以前の酒飲みのXとふたりを手伝わして、明治41年(1908)の暮れごろから、建築の設計監督を京都の三条キリスト教青年会館の一室で開業した。それまでは、あるいは同志社で英語を教えたり、京都の青年会館の嘱託教師をしたり、また個人教授をしたりして、ずいぶん英語の切り売りをしながら、それでも八幡を本拠として京都に通い、生計の道に苦心していた。

明治42年(1909)には京都の三条柳馬場に、ドイツ人デルランの設計になるキリスト教青年会館が、アメリカのワナメーカー氏の寄贈として、京都市をかざることになり、その建築が始まったので、わがヴォーリズさんはその監督として雇われた。毎日、セメントの粉末や壁土、木屑、れんがの破片のとびちる中で日本の職人や土方を相手にして、優しい若いアメリカの青年ぶりを発揮していた。昼飯はおやこどんぶりいっぱいで元気をつけて働いた。そしてその収入がいくぶん確定すると、すぐに使い途を考え、明治42年(1909)には、東海道線の要点、馬場(大津)と米原に、小さい借家をみつけて、ふたりの青年幹事を雇いいれ、鉄道従業員のために慰安ならびに教育の事業を始めた。

この時分のヴォーリズさんのむぞうさな生活ぶりは、実に、むかしの物語にあるフランシスコ・ザビエルのようであった。銭湯に平気で出かけて、番台の女の目を驚かしたり、うすぎたない飲んだくれのXの寝床にもぐりこんで寝るくらいは朝飯前のことだし、洋服などもいっこうお構いなく、いわゆる、なりも振りも忘れて、青春時代をただ一すじに、建築の設計監督を職業として成功せねばやまぬ、強い鉄の意志で働いていた。思えば一心不乱の権化のように、ただ神の国の拡張を夢みて、逆境に処したヴォーリズさんは、実に神々しいというよりほかはない。

それにひきかえて、飲んだくれのXは、ヴォーリズさんの小金を横領したり、同僚K君の止めるのもきかないで、京都の遊郭なぞにひたりこみ、ヴォーリズさんが涙を流して祈っているのもうわの空に聞き流し、酔いつぶれては、人通りの多い三条大橋で欄干ごしに立小便をしてみたり、無銭遊興で警察の世話になり、わけのわからぬブロークン・イングリッシュで巡査たちをてこずらしたりした。なんでも、Xは警察にゆくと、いっさい日本語を使用しないそうだ。ヴォーリズさん直伝の英語を、のべつ幕なしにどなりたてて、例の象のような巨大な体格を資本にして暴れまわるので、ずいぶんやっ介なことこの上なしであったという。しばらくたって後、Xはヴォーリズさんのところに、いたたまれずに出奔、ある船会社の船員になってしまった。あるときなどは、日本刀を引き抜いて人を強迫したこともあったが、よく涙とともに悔悟する男であった。悪くいえば、まことに改心の名人であった。

こんなわけで、初めのうち、ヴォーリズさんの建築事業は、歯切れのよいまっすぐな村田幸一郎君とふたりでやっていたが、明治42年(1909)の冬、わたしが神戸を引き揚げてきて、その事業に参加することになった。「われらは、20年の将来をみるのだ」とは、そのころのヴォーリズさんの標語であった。

(『近江の兄弟』吉田悦蔵著83~85頁引用。本文は「前略」のところではXが「中略」のところではKがいかに酒飲みであったかくわしい話を載せているが、冗長になるので省略させていただいた。「人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」マタイ11:18とイエス様はご自分について言われたことを述べておられる。「大工」マタイ13:55であるヴォーリズさんはその生き方からしてイエス様の弟子であった。)

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