2010年12月5日日曜日

飼葉おけの中に クララ

(オーストリア・アドヴェントカレンダー by K.Aotani  )
「客間には彼らのいる余地がなかったからである」(ルカ2:7)
「見よ、わたしはすぐに来る」(黙示録22:12)

選民としての歴史のうちに長い年月を経ましたユダヤ人は、預言と約束をもって育成されていました。彼らは時代について深刻な感覚をもっていましたから、彼らは約束の救い主を待ち望んでいたのです(ルカ2:15)

神はその真実をもって約束を重んじ彼らの待望みに答えて、遂に独り子を彼らの救いのために遣わし万民の救いとなし給いました。学者も宗教家も心してこの時を待ち、メシヤ待望を忘れませんでした。

ところが一面においてはユダヤはローマの属国として肉の生活に窮々としていました。事実神の遣わし給うた御子はご自身の国に来たり給うたのに、世は彼を受け入れる余地がありませんでした。聖書に記されているように客間には余地がなかったのです。何と厳かな出来事でしょう。人の子は来たり給うたのに知らなかったのです。真の王は押しのけられ、この世の君が栄えています。

しかしこれは昔の出来事、よそごとに見ておられません。主イエスがわれわれの心に訪れ給う時、われわれの客間は他の客で混乱しており、世の旅人がわがもの顔に飲食をほしいままにしていますし、われわれもそれらを押しのけて主を迎えようとの強い抵抗をしません。そして栄光の主は馬小屋の飼葉おけの中に宿られたのです。あさましいことです。私どもは二千年前のクリスマスをふりかえって胸痛むように思います。しかし自分の心を反省します時、自分にも同じ心がひそんでいますまいか。

客間の主客である救いの君が飼葉おけに迎えられ、神を喜ばせ奉る信仰の主客には馬小屋をお使いくださいと平然とし、当然のように思っているとは!

そんな生活でどうしてやがての日、主の前に立つことができましょうか。主のお顔をさけて暗い木かげにかくれるよりほかにありません。そんなことは思うだに辛いことです。

真実な心をもってクリスマスを喜ぶことはそうたやすいことではありません。真に罪と滅亡の恐ろしさを知り、救いの恵みの、何物にもかえられない価値を知った時本当の意味でクリスマスが祝えるようになります。大切な客間を主にささげ、熱い心をもって主を迎えまつる日こそ真のクリスマスです。そうでないと二千余年前のある日のあの町のように世のもので心を一パイにしているのです。

救いの恵みを心から喜ぶ者は再び来たり給う主に対する待望も強いことです。その日首を挙げて主を迎えまつるために、また勝利と喜びにみつる朝を迎えるために、きょうわが生活の客間を主に提供しましょう。人類同志の関係においては言訳も都合も肩巾ひろく通過できましょうが、すべてを知り給う主の前にわれらの内なる思いはかくれる山かげも、身をよせる岩かげもありません。主に飼葉漕を提供した過去を悔い、砕けてへり下った心の客間に主を迎え、救い主の降誕を賛美しましょう。やがて栄光の王としてきます主を思いつつ!

(『泉あるところ』小原十三司・鈴子共著12月5日の項目から引用)

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