2010年12月12日日曜日

「非難の言葉」の退場 ウオッチマン・ニー

(古利根川のカモ)
クリスチャンにその力を失わせるものが二つだけあります。一つは罪です。もう一つは、自分の上にいる人たちを悪く言うことです。悪口を言えば言うほど、一層力が失われます。もし人が口で何も言わず、心の中だけで不従順であるとしたら、その人の力はあまり早く失われないでしょう。口に出して言う結果は、わたしたちの想像をはるかに超えて重大です。

神にとって、人の考えと行為とは全く同じです。その考えがある限り、罪が犯されます。他方において、マタイによる福音書第12章34節から37節には、心のあふれ出たものから、その口は語る、とあります。裁きの日には、わたしたちは語った言葉によって、正しいか罪があるかを裁かれるでしょう。これは言葉と思考との間に相違があることを示します。もし言葉がないなら、まだ包み隠す可能性があります。しかし、言葉が出てくると、あらゆることがさらけ出されます。この理由により、心の中の不服は口で公然と語ることよりは少しましです。今日クリスチャンは、彼らの行為を通してその力を失うより、もっと多く彼らの口を通してその力を失います。実はもっと多くが彼らの口を通して失われます。すべての反逆者たちは、彼らの語りかけでごたごたを引き起こします。ですから、もし人が言葉で自分自身を制することができないなら、彼は何事にも自制することができません。

ペテロの第二の手紙二章十二節をもう一度見てください、「ところが、これらの者たちは、捕えられ破壊するために生まれてきた、理性のない動物のように・・・」。これは聖書の中でも最も強烈な言葉です。これほど重大な叱責の言葉はありません。なぜ聖書はこれらの者を動物と言って叱責するのでしょうか? それは、これらの者には何の感覚もないからです。権威は全聖書の中でも最も中心的なことです。ですから神にとって、非難することはすべての罪の中でも最も重大なものです。口は軽々しく語ることはできません。人が神に会うやいなや、彼の口は制限されます。そして尊貴を非難することを恐れるでしょう。いったん権威に出会うと、わたしたちの中に権威の感覚が加えられます。同じように、いったん主に出会うと、罪の感覚があるでしょう。

教会の一と力は、人の不注意な言葉を通して破られます。今日、教会の中では、大多数の問題は非難の言葉から生じます。実際の困難から生じるものは、ほんの少ししかありません。この世の罪の大多数はやなはりうそから生じます。もし非難が教会の中でやむとしたら、わたしたちの問題の大多数は減少するでしょう。わたしたちは主の御前で悔い改め、主の赦しを請い求める必要があります。非難は、教会の中では徹底的に終わらせられる必要があります。一つの泉から二種類の水を出すことはできません。一つの口から、愛の言葉と非難の言葉とを出すことはできません。(※)どうか神がわたしたちの口に門守を置いてくださり、わたしたちの口だけでなく、わたしたちの心をも守り、非難する言葉や思いをすべて止めてくださいますように。どうか今日を出発点として、非難の言葉がわたしたちの間から出て行きますように。

(『権威と服従』114~116頁「人の反逆の現われ」から引用。題名は引用者による仮題である。※は言うまでもなく「泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせることがあるでしょうか。」ヤコブ3:11が念頭にあるのであろう。)

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