2014年1月26日日曜日

死は終わりではない(承)


西軽井沢国際福音センター(御代田町)

今から多分34年前に、うちの娘リンデという女の子は、癌になりました。20歳で天に召されたのです。この娘はイエス様のために実を結びたいと切に願っていました。自分の健康や自分の幸せは枝葉(えだは)のことでした。ただイエス様だけが栄光をお受けになる時、私は嬉しい。これこそ娘の態度でした。 そして、この証は実を結ぶようになったのです。多くの人々は、イエス様を求めるようになり、イエス様をたずね、イエス様に出会うようになったのです。

 ドイツで、一人の方は私に尋ねてくれました。そして次のような質問をしました。リンデがそんなに喜んで死ぬことができたのはいったい何だったの? そして彼女が、そんなにもこの世から離れて、目に見えるものに関心をもたず、目に見えないものに関心を持ったのはいったいどうしたんでしょうか? 娘は次の文章を書きま した。亡くなってから、彼女の聖書の中で見つけた文章です。

人格者とは死を直視することができる人です。

 ある人は死後の問題は死んだときに初めてわかることであって、この世で生きている間はそんな問題に煩(わずら)わされない方がいいと考えています。そのような考え方について私たちはいったいどのような態度を取るべきなのでしょうか。確かに「死」についての人間の考え方は色々違っています。一般に、「死」について何か話そうとすると嫌な顔して、それを拒む人が少なくない。

 太陽王と呼ばれた有名なフランスのルイ14世は葬式の列が通るのを見た時、すぐ「カーテンを閉めろ」と命令した、と伝えられています。彼は、ご存知のように自分が望むものは何でも持っていました。名誉も地位も財産、その他あらゆるものを手に入れた有名な王でした。けれど、彼が一番嫌ったものが、正に「死」だったのです。ドイツの偉大な詩人であり政治家でもあったヴォルフガング・ゲーテという男も「死」を嫌ったため、非常に親しい人の葬式にさえも出席しなかったのです。

 多くの人はいろいろなことについて計画的に考え、その計画にしたがって行動しようとしますが、「死」に対しても同じように考えようとすると、もう滅茶苦茶になって何の計画も立てられなくなってしまうため、「死」のことに対しては頑(かたくな)に眼をつむってしまうのです。そして、彼らは生きている限りはできるだけ楽しみたいという強い願いを捨て切ることができないのですけれども、悪魔はそのような人々にささやいたり、「死」のことについて深刻に考えることをやめさせたり、あるいは目を眩(くら)ませて享楽的な生活へと誘惑して、絶えず悪の罠に引き込もうとしているのです。

 けれども、実際問題として考えると、実際は以上に述べたことは違った結果を示しています。すなわち、毎日この国で一時間ごとに少なくても二十四人の人々が交通事故で死んでしまいます。そしてまた第一と第二の世界大戦の、二度にわたる世界戦争では八千万人の人々が殺されてしまったのです。この国で毎年大体四千人以上の社会人が命を捨ててしまいます。残された家族の悩み、また苦しみはいかなるものでしょうか。「死」とは否定することの出来ない事実ですから、「死」について真剣に考えようとしない者は愚かであると言わざるを得ません。たとえばロメオ(?)という島で非常に珍しい儀式、ひとつの習慣があります。すなわち、それは結婚式の時に新郎と新婦との間に死んだ人の頭蓋骨を置くという風習です。その意味するところは、人生でもっとも幸福なときに死を忘れないようにということであると言われています。

 冷静な人は誰でも「死」がすべての終わりを意味するのではない、ということを認めざるを得ません。主なる神によって造られた人間の人生の目的が「死」によってピリオドを打たれるとはどうしても考えられないからです。働いている者は必ず何かの目的をもってます。もし、大工さんが無計画に目的なき家を建てるようなことがあったとしたなら、それこそ全く意味のないことです。仕立て屋さんが布(きれ)を裁断して洋服を作る場合に、必ずはっきりとした目的をもっていることとは言うまでもありません。意味がなく、目的がなく、計画がなければ、誰も働くことができません。

 したがって、全能なる主なる神が人間を創造された時にも、はっきりとした一つの目的をもっておられたことは明らかです。主なる神は、決して人間の「死」や滅びを望んでおられるのではありません。主なる神は、人間が生きることを望んでおられます。したがって、私たちは「死」のことについて考える時には、「死」そのものだけを思い出すのではなく、死後に来るものに注意を向けなければならない。ちょっと6つの点について簡単に一緒に考えたいと思います。

 第一番目、私たちの数十年間の人生というものは、それですべてが満たされるためにはあんまりにも短かすぎます。現在は、われわれの世界では一番長生きしたとしても、精々百二十歳ぐらいが限界です。けれど、百歳まで生きながらえた人の数も何と少ないのではないでしょうか。私たちは、この問題について真剣にまじめに考えるならば、聖書の言っていることが正しい、と認めざるを得ません。すなわち

あなたがたは、しばらくの間現われて、たちまち消えてしまう霧にすぎません

 われわれの人生がちっぽけなものであることは私たちでさえよくわかることですが、六千年を越える人類の歴史と言えば、主なる神の目から見ると無に等しいものです。私たちは百年前にどこにいたでしょう。そして百年後にはいったいどこにいるのでしょうか。われわれの人生が余りにも短すぎるため、死後の世界があるのではないかという考え方が自ずから出てくることも当然と言えましょう。この問いに対して、聖書ははっきりと別の世界があることを教えています。なぜなら、人間の人生は余りにも短かすぎて、そこにはほんとうの意味がなく、死んでから初めて本当の世界が始まるからです。

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