2014年1月27日月曜日

死は終わりではない(転)


二番目、主なる神ご自身が、人間の心に、「永遠」を思う思いを授けられたと聖書は言っています。人間は、主なる神のかたちに似せて造られました。そして、主なる神がその人間に「永遠」とは何か、「完全」とは何かを理解する力をお与えになったのです。人間は決して過ぎゆく儚(はかな)いものや不完全なものによっては心が満たされません。人間は心から愛し、心から愛されることを望んでいます。それですから、この世の人間的な愛に何回も失望するのです。

芸術家は情熱をもって完全なものを作ろうとしますが、しばしば自分の作った物を破壊してしまうのです。なぜなら、自分の作った物と言えども決して完全なものではないからです。青年は将来に対して無限の希望を持ち、それが永遠に続くように思われるなのではないでしょうか。老人はそれほど夢多き将来を考えることがありません。若者にとっては一年と言えども非常に充実した意味のある長い一年のように思いますが、老人は過ぎゆく一年が非常に短く、はかないものであるということを体験から知っておるのです。また、多くの婦人はいつまでも若く、美しくありたいために莫大な費用をかけたり、そのために一生懸命努力したりしますが、結局どうすることもできないことを知って失望してしまいます。

人間の欲望は新しいものが次から次へと与えられても決して満足していません。それは悲劇であると言わざるを得ない。次から次へと目まぐるしく移り変わる、新しい流行を必死に追い求めても、そのことが幸せをもたらすとは言えません。実業家は、日夜金儲けのために努力します。独裁者は、自分の国を支配するにとどまらず、やがては世界を支配しようと無限に欲望を高めていきます。いわゆる仕事の鬼は、仕事だけをたいせつにして、ほかのことは何も考えないようにと一生懸命に苦労しますが、結局は何のために生きているのかわからなくなってしまい、息が詰まってしまうのです。人間的に見ると仕事が成功し、金持ちになり、病気もせず、非常に幸福そうに見えた人であっても、つねに満たされざる思いが心の中にあるため、主なる神の目から見ると決して幸福ではありません。

しかし、主なる神の御心は私たち人間が永遠のいのちを持つことに他ならない。それですから、主なる神以外に私たちの心は満たしてくれる方は誰もいません。

ヨハネ伝4章の中で、次のようなこと書いています。五人の夫をもつ姦淫の女のことが描かれています。疑いもなく彼女は幸福になりたいという願いを持っていました。しかしながら、彼女の切なる思いも決して満たされなかったのです。けれども、主イエス様は彼女に言われました。

わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

と。(すると)女はイエス様に言ったんですね。

先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。

有名なアウグスティヌスという男は「私が主なる神のもとで憩うまではまことの平安がない」と告白したのであります。

三番目の点、もしも死後の世界がなかったならば、この世はまったく意味のないことでしょう。永遠のものからはじめて、われわれの人生が意味あるものとなるのです。もしもすべてが「死」でもって終わるとすれば、生きているときのあらゆる努力は、いかなる価値を持っているのでしょうか。ソロモンという大王様はこの世のものは全てむなしい、「空の空である」と言いました。けれど、彼は名誉、地位、財産、その他ありとあらゆるものを持っていました。世界一の金持ちでした。けれど、彼は「すべてはむなしい」と告白せざるを得なかったのです。この世でとこしえに価値を持続するものは何一つありません。私たちが生きている時に持っているものはすべて、「死」と同時に私たちから離れてしまうのです。

唯物主義者は次のように言うでしょう。私たちは飲み食いしようではないか、明日の分からぬ命なのだ。しかし、この哲学は憤慨と絶望の表現であると言えましょう。なぜなら、若くて金もあり、時間も充分あるものが飲み食いすることは難しくないかもしれない。けれど、歳とって、金もなくなったときに、ただ病と死だけが待つようなことになるでしょう。死後の問題を本当に解決することができないならば、まさに自殺をするか、気違いになるか、いずれにしても、まことに悲惨の道だけしか残されていないことでしょう。けれども、自殺はこの問題を正しく解決することではなく、それはそれから逃避することを意味するのではないでしょうか。

 四番目、この世の正義と言えども決して私たちを心の底から満たしてくれるものではありません。なぜならば、正義と言えどもこの世においては私たちの完全な正義に対する熱望を満たしてくれないからです。この世における多くの不義は、必ずしも正しくさばかれているとは限りません。また反対に、この世で正しく生きている人々がそれ相当の報酬を与えられているかと言うと、必ずしもそうとは限りません。むしろ真理のために迫害されたり殺されたりした人さえいるのです。もしも死によってすべての終止符を打つならば、人生はまったく意味のないことです。けれども、事実は決してそうではありません。確かに死んで別れることはキリスト者にとっても等しく悲しいことであり、寂しいことであるかもしれないが、それにもかかわらず

 五番目、死んでから再び愛する者と会うことができるという確信をもつことができるということは、深く考えさせられることです。愛する者との死の別れは一時的なものにすぎない、必ず再会できるという確信をもつことは、信ずる者にとって最高の慰めであり、また喜びでもあります。

 六番目、その時に、顔と顔を合わせて相見(あいまみ)えることができ、イエス様に似た者となることこそ、創造主なる神のご計画に他なりません。ただ単に人間が永遠の存在として造られ、完全なものを追い求めていくために、造られただけではなく、主ご自身のために造られたのだ、ということを忘れてはなりません。すなわち初めの人間であるアダムの罪により、主なる神から離れてしまった人間は、どうしても神との生き生きとした交わりを回復しなければ生きていくことができません。救われた者が永遠にイエス様との交わりの中に時を過ごすことができるという確信を持つことができるとは考えられない(ほど)すばらしいことです。あらゆる宗教はあの世のことについてはっきりしたことを言わず、単なる想像に基づいて抽象的なことを言っているにすぎない。

 しかし、神のみことばである聖書は信ずる者にとっては、未信者にとっても死後の世界があることをはっきりと言っているのです。聖書によると、アブラハム、イサク、ヤコブが、すなわち四千年前に生きた人々が今もなお生き続けていることがわかります。それに対して悔い改めようとしなかった人々は陰府(よみ)の国に落ちて行かなければならず、そこで苦しまなければなりません。イエス様は、頭を下げたくなかった人々が、死後陰府の国で苦しんでいる時には決して、無意識な状態であるのではなく、はっきりとした意識を持って苦しまなければならないと言われました(※)。このように死んだ後ですべての信じようとしなかった人々は、陰府の国でやがて主なる神の前に引き出され、最後の審判を受けなければなりません。

 救われている人々、また救われていない人々も、死後も生き続けるように、終わりがないのです。主なる神によって救われた人々は永遠のいのちを持ち続けることは明らかです。つまり、死後、救われた人々は永遠のいのちをもって主なる神とともにおり、悔い改めたくない人々は苦しみと苦悩の中に滅びなければならないと聖書は言っています。

(※引用者註:ルカ16・19〜31にそのことが示されています)

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