2014年1月28日火曜日

死は終わりではない(結)

  冬枯れに 万両映ゆ 死は終わり ではないと神 明らかにせり  
これらのことをわかりやすく要約すると次のように言えるでしょう。すなわち、まず第一に、人間は生まれたときに、「魂」が与えられ、そのために永遠に存在する権利を与えられます。第二に、そのような人間が、罪を悔い改めて、イエス様を信ずる信仰によって新しく生まれ変わったときに、「永遠のいのち」を与えられます。第三に、そのような人は復活の時、「不滅のからだ」を与えられます。確かに未信者と言えども永遠に存在するわけですが、しかしながら、新しく生まれ変わらない限り、ほんとうのいのちを持つことができません。本当のいのちは、イエス様との交わりの中にあってはじめて存在するのです。ヨハネによる福音書17章の3節に次のように書かれています。

永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

そしてヨハネ第一の手紙5章20節にみると、書いてあります。

この方こそ(イエス・キリスト)、まことの神、永遠のいのちです

と、あります。まことの主なる神を信じない未信者は、この世でほんとうのいのちを持っていません。すなわち、主なる神との平和を知らないから、満たされていません。

 前に話した有名な詩人であるヴォルフガング・ゲーテという男は、彼の全生涯において24時間本当の幸福だったことはなかったと告白したのです。なぜ人間はそのような満たされない状態にあるのでしょうか。その原因はまさに人間の心に本当の平和と平安がないということです。人間は死後さばきを受けるため、人間には平安がないと聖書は言っています。前に言いましたように20歳で天に召された娘は「人格者とは死を直視することのできる人」と書いたのであります。「死」を直視することのできる人とは、すなわちイエス様によって救われた人です。だからパウロは「キリストこそ私の平和だ」と証しました。イエス様は主なる神との贖いをなしてくださいました。主イエス様は主なる神に敵対する関係を無にしてくださったのです。われわれ人間が主なる神から離れている罪あるいは債務を、イエス様の尊い犠牲によって完全に取り去ってくださったのです。

 まことの平和は、イエス様を信ずることによってのみ与えられるものです。イエス様を信ずる者は、みな、今、主なる神との平和、また贖いをもっていることを信じ、確信することをゆるされています。主なる神は、もはや怒りを持っておらず、イエス様の犠牲によって完全なる贖いと和解を成就させているのです。もはや何も神との結びつきを引き離すことはできません。主なる神との平和を持っている者は、もはや死を恐れることはありません。なぜならば、全き平安のうちに休むことができるからです。主なる神との平和がなければ、すなわち、主なる神との交わりがなければ、ほんとうの喜びも幸福もありません。人生は無意味な価値のないものになってしまいます。

有名な音楽家であるヨハン・セバスチャン・バッハは数々の名曲を残しましたが、その中でもはっきりと歌っているように、心から「死」を待ち望んでいたのです。つまり生きているこの世よりも、死んだ後に来る世界のすばらしさを信仰の目で見ることのできたバッハは、主を賛美せざるを得なかったのです。信ずる者と言えども、罪人である以上、本来は未信者と全く同じように、陰府(よみ)の国へ行かなければならない運命に定められていましたが、ひとり子なるイエス様の十字架によって、罪が贖われ、罪から解放されたために永遠のいのちをもつことができたのです。そのために、信ずる者はもはや「死」を恐れる必要がない。ローマ8章、有名な箇所ですけど、次のように書いています。275頁です。新約聖書の275頁。8章1節。

キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

38節

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

 この意味で、「死」は信ずる者にとって信仰により、イエス様に近づくための橋渡しの役割を果たすと言えましょう。したがって、 信ずる者は「死」を恐れる必要を全然持たないわけです。もう一ヵ所読みます。ピリピ人への手紙、今度は335頁です。ピリピ1章の20節から

生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

 主の恵みによって救われた人々にとって、死ぬことはイエス様とともになることを意味していますから、益です。パウロは死ぬことと生きることとどちらが良いか考えた時、死ぬことを選んだのです。けれども、このパウロは多くの人々のために奉仕をしなければならない必要を感じていたため、さらに生き続けることを決心しました。この問題がなく、パウロ一人だけのことであったならば、恐らく死ぬことを選び、死ぬことを喜んだに違いありません。うちの娘の場合はそうだったんです。軽井沢に次のような意味の聖句が刻まれたお墓があります。「この世を去ってキリストとともにいることのほうがはるかにすばらしい」と書いてあります。救われた人々にとっては、未信者すべてが、いだくような「死」の恐ろしさが全然ありません。

 ドイツのアドルフ・ヒットラーは第二次大戦中、六百万人にのぼるユダヤ人を殺してしまいました。けれど、その当時オランダにテン・ブームという家族がおり、多くのユダヤ人を囲いました。ところが、結局ナチスの秘密警察であるゲシュタポがそれを見つけ出し、全員強制収容所に送ってしまいました。そこでコーリン・テン・ブームという一人の女性を除いてみんな殺されてしまいました。けれど、その時、彼女の父親は家を去るにあたって、大喜びで次のように言いました。「一番すばらしいことがこれから始まる」と。

 このことばの意味は、彼らの出発が恐ろしい死の旅路でなくて、イエス様とともになるための最高の喜びと感謝の旅に出かけるという意味です。将来与えられる栄光を見て、主イエス様のものとなった者は、生ける希望を持っているのです。結果としていかなる患難のときにも主を喜ぶことができる。なぜなら、将来に対して何の不安も持っていないからです。私たちは、将来のことを知ることができませんけれど、イエス様を知っております。それですから、将来に対するすべての問題が答えられていることになるわけです。イエス様御自身がわれわれの将来です。あらゆる不安と心配はイエス様によって慰められるのです。イエス様は、御自身を信頼する者を必ず目的地まで導かれるのです。それですから、私たちは、今、喜ぶことができ、誇ることができ、感謝することができるのです。

 三千年前この世界を治めた王様であるダビデは言いました。

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。

 このような確信をもつことこそが最高の幸せなのではないでしょうか。

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