2017年2月6日月曜日

ベック兄の原稿

わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)

 ベック兄のメッセージ原稿はローマ字で記されている。最近も一人の方からその原稿を漢字仮名まじりに直されたことを教えていただき興味を覚えた。というのは、私は今古い音源をもとに、聞き書きを集中的に行っているからだ。ところが最近『キリスト者の使命』というベック兄の比較的古い時代のものと思われるメッセージの聞き書きをして、気づいたことがあるので今日はそのことを話題にしたい。

 ドイツ人であるベック兄にとって日本語でメッセージするのは大変である。必ず原稿が必要である。ところがベック兄の日本語表現は大変洗練されていてこの日本語はどなたに習われたのかいつも疑問に思う一つだ。一説には今ドイツに行ってしまわれた日本人の方がベック兄からドイツ語を習い、その方が日本語をベック兄に教えられたと言うがそれ以上はわからない。

 しかしベック兄にとって来日当時日本語の聖書は文語訳と口語訳があり、それを軸にメッセージされたのであろうが、1970年に新改訳聖書が発行され、特に新改訳聖書を評価されたベック兄だから来日15、6年で今度は第三の聖書日本語訳を身につけねばならなかったから、その苦労は並大抵ではなかったと思う。今回『キリスト者の使命』の中の「実を結ぶ人生」のメッセージが明らかにその二つの聖書訳が混淆して語られていることに気づいた。大変苦労されたことが窺える箇所がいくつか見られる。多分1970年以前の口語訳でベック兄も最初のメッセージはつくられ、その聖句を覚えておられたのであろう。そのメッセージ中の「 」で示したことばはいずれも口語訳のそれであるからだ。

 日本人にとっても聖書訳が変わることは大変だと思うが、ドイツ人であるベック兄にとってはさらに大変だったことが想像される。でも淡々とメッセージはなされている。そのことを大仰に考えもせず言われもしなかったのであろう。ゆかしいベック兄の態度だ。水鳥はスイスイと川の中を泳いで行く。しかし言うまでもなく、隠れた水中では必死に水かきがなされているのだ。

 メッセージの中でベック兄は「イエス様は何事でも大仰に言われなかった」と語られている。ベック兄愛用のことばのようであるが、何人の日本人が今その表現を用いるであろうか。大仰とは言うまでもなく、「おおぎょう」と読み、大げさに言われなかったと言うことだ。それにくらべてブログ氏はどちらかと言えば大げさに物事を捉えもし言いもする方だ。ベック兄が残された遺産、それは何事も大仰に言われなかったイエス様の真実な生き方だ。それを学びたいと思った。くわしくは「ベックさんのメッセージ」http://2chronicles16-9.blogspot.jp/のサイトをご覧いただきたいが、その一部の文章を写しておく。

 「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」と書いてあります。主から離れては私たちは本当の意味で、信ずることも、祈ることも、愛することもできません。イエス様の判断によると「少しも」できません。イエス様は何事でも大仰に言われなかったのです。

この末尾の二行の言い方、何度読んでも味がある。大仰に言われないイエス様はここではっきり何もすることができませんと言っておられるというのですから。そしてこのメッセージの後半では、その力を体験したパウロのことばが引用されている。それはベック兄が経験したことでもあるのだ。何しろベック兄にとって、日本語は「メトシェラの老齢、ソロモンの英知、ヨブの忍耐」が必要だと教えられたそうですから。逆に言うとベック兄はそれらすべてを備えられていたということが見えて来る。

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