2017年2月1日水曜日

幼な子は真中に立たせられているか

 考えるところがあって、『マタイ伝のキリスト』(A.B.シンプソン著)を今年になってから読み始めた。教えられるところが随所にある。下記のみことばにちなんだ彼の思いを少し写して見よう。

イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、言われた。(マタイ18:2)

 どんな文明国であってもまた野蛮国であっても、またどんな人種であったとしても、一度その家庭に入ってみる時、今なお地上でみられる最大の力は幼な子の感化力である。・・・この幼な子が一度熱病に犯され、死の腕の中に沈んで行くとき、この尊い生命のために両親は何ものを惜しむであろうか。小さな生命のかわりに、何ものを与えてもいやと言うであろう。この柔和な幼な子が、われわれの生涯のうちにしばしば現われるように、もし天上の世界に召されるとしたならば、このことほど地上の両親の心を天にむけさせるものはないであろう。・・・このように、多くの人々の心は、すばらしい御国へとわれわれを招く幼な子たちの歌声を聞いてきた。そして、幼な子たちと再会するという幸いな望みのために、この世と罪とに顔をそむけて、神と天国のために生活しようと決意したのである。

 もしわれわれが天上の世界を隠しているカーテンの中にひとたび入ることができたら、きっと数えつくすことのできないほどの幸福な魂を見るであろう。しかし、その無数の霊魂のうち、幼な子と成人の割合は50対1以上であろう。・・・こうしてみれば、天国においては地上における時と同じように、今もなお主が小さい幼な子たちを大人たちのまん中に置かれていることは真実であると言わねばならない。

 やがてわれわれは、われわれの愛する幼な子が、幼い日に家庭から取り去られたのは、われわれが天において幼な子とともに、その美しさ、その喜びをわかつことができるようにしてくださるためであったことを感謝するであろう。

 (『マタイ伝のキリスト』160〜161頁の抜粋引用)

 権力が暴走する。「いま世界にまん延しているのは論理の整合性を欠いた欲望であり、論理の破綻をものともしない暴走の連鎖である」(高村薫 図書12月号〈もう後がない〉より)

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