2017年2月7日火曜日

3年7ヵ月の祝福


ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。(イザヤ書44:21〜22)

 今日は火曜学び会の日であった。都合により休み、ネットで視聴させていただいた。メッセージ、お証し、それぞれ心を揺さぶられる内容であった。メッセンジャーの方は度々家庭集会にお招きする方だが、冒頭の聖句がメッセージの主題聖句であった。そしてそのみことばに基づいて四つのことを指摘してくださった。

 先ず私たちは主なる神様によって愛される者として造られていること。次に、たとえどんな背きの罪もイエス様の贖いの死によって赦されるということ。第三に決して私たちは主にとって忘れられることがない存在だということ。最後に主なる神様は『わたしに帰れ』と絶えず呼びかけてくださる愛なるお方だと語ってくださった。

 ところがそれで終わりかと思いきやこの愛の実践篇であると言ってご自身のお兄さんが78歳でつい最近召された経緯をお証してくださった。救われて後、30年間主に背き続けられたお兄さんが家族、兄弟に自らの罪を詫びて天に凱旋されたという内容であった。

 学びの後、今度は昭和16年生まれのご婦人が自らの信仰を証してくださった。時間の経つのも忘れさせる、主イエス様の数々のお取り計らいに聞いている私はただ目を見開くばかりであったが、これまた私にとっては良き悔い改めの時となった。なぜなら、その方はご主人とともなる事業の浮沈の中で何故か苦難に襲われる時、いつも空を仰いで救われたと言われ、主の御存在を思う次のみことばを紹介されたからである。

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。(詩篇19:1)

 私のような好い加減な信仰でなく、揺るぎない主への感謝がその方の口を通して語られたからでもある。

 そして今日は午後には去る1月19日に42歳で3年7ヵ月の闘病の末、召された若いご婦人のお別れ会もあった。ここでも詩篇103:1〜5、マルコ5:21〜43がメッセンジャーの口を通して忠実に語られ、遺族への大きな希望、慰めの一時となった。終わりに遺族であるご主人から挨拶があった。三ヶ月に及ぶ意識不明の状態から、意識が回復したが、視力は閉ざされたまま、他の五感も言うことを効かなかった。そのうち、やや改善されとうとう会話ができる状態になり、お二人にとってともに祈ることが生きる原動力になったこと。そして天国への確かな希望を持つことができたことなどを語ってくださった。

 考えてみると彼女が倒れる一月前2013年の5月18日にやはり私どもにも同じような病が家族の一人に襲い、パニックになった。その頃から私たちはこのご夫妻には戦友の間柄の感があった。双方の家族のために多くの方々が祈ってくださり今日がある。だから今日のお別れ会は特別の思いもあり、出席したかったが、以下の事情がありネットで視聴せざるを得なかった。それは奇しくも今日、その家族がパリから帰国する日になってしまったからである。98歳になる祖父、親族のご機嫌伺いが目的である。先ほどその家族をふくんで食卓を囲んだ。感慨深いものがあった。

 それにしても今日は一日、「主イエス様の真実な愛は尽きることがない」ということを嫌という程、この者に知らしめてくださる日となった。顧みると今日は我が誕生日の日であった。長女から写真の手作りのお菓子が贈られてきた。家内はそれをきれいにお皿に盛り、さっさと彩りをつけ飾ってくれた。いつもは様々なお祝い品をくれる次女には最初から当方で辞退していた。それなのに何もしないことをしきりと詫びる。そこへ行くと男性陣は三人が三人とも無関心である。寂しくもあるが、そうでもない。当然な気がするからである。やせ我慢を張るわけではないが、かくの如き十分な恵みを主にある兄弟姉妹のお証をとおして十分いただいたからである。これぞ誕生日にふさわしい恵みではないか。上から無償でいただいた最高の贈り物だと思う。

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