2019年1月19日土曜日

隣の家

窓越しに 叱責の声 耳朶を打つ 老婆のありし 日を偲ぶなり

 日の経つのは早い。一週間前は小中の同窓生と旧交を暖め合っていたのだ。その折り、一枚の写真を撮り、さらにそれにちなむ話をブログに書いた。渋柿の木の持ち主が同窓生であり、ちょっとした驚きであったからである。しかし、よくよく考えてみると、ひょっとしてそのたんぼは戦前は我が隣家の所有の小作地でなかったかと、その後思い至ったのである。

 今は最も寒い季節だが、三月の声を聞くと少しずつ暖かくなる。そんな時、中学生の頃よく我が家の屋根に上って日向ぼっこをしながら本を読んだり勉強したりしたものだ。その折り、決まっていつも屋根越しに見える隣家の幾層も並ぶ蔵を眺めていた。一体幾つあったのであろうか。二つ三つであったようには思われない。隣家は大地主で、その所有になる田畑を踏まないと隣の町へは行けないと言われていた多額納税者議員であった。

 一家は私が物心ついた時は、東京が本宅になったようで、いなかは小作人の中の大番頭の方にまかされていたが、屋敷には当主の妹さんがおられるのみで女中さんたちにかしずかれての生活だった。時々、その方が女中さんを叱責する声が狭い路地を隔てて、窓越しに我が台所の間にまで聴こえてくることもあった。その方が倒れられたのは私の小学校の5、6年の時でなかったかと思うが、母は知らせを受けて一番先にかけつけたように記憶している。隣家とは本家・分家の間柄にあったからだ。そのお礼でもあったのか、隣家から「万年筆」をいただいて、嬉しさのあまり、その「万年筆」を日記に模写し、同時にそれを使って感謝の思いを書きなぐった記憶がある。

 同じように多額納税者議員の一族であった太宰治が確かどこかで「われは津軽の農民なり」と自虐的に書いていたように記憶するが、隣家がいつの間にか、いなかを捨て、それぞれ東京やフランスに出てしまったその精神と重ね合わせて、見ていた。

 今ではその隣家は全部こわされ、昔を知る縁者は私のみで、かつその屋敷跡には何軒かの家が現代建築よろしく、建てられて、もはや昔の面影は見るよしも無い。しかし我が脳裏にはしかと刻印されている。幸い、写真こそないが、福山聖子さんが描かれた画がある。冒頭の絵はそれを拝借させていただいた。旧町役場に展示されているものを写真で撮影したものである。

 先週見た一本の渋柿は、こうして私をいつの間にか、過去を振り返らせる機縁となった。しかし、実はもう一つご紹介したいことがある。それは明日に持ち越すことにしよう。

財産は激しい怒りの日には役に立たない。しかし正義は人を死から救い出す。(箴言11・4)

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