2019年1月4日金曜日

二組の大どんぶりと大皿

浅間山を遠望する 2019.1.1

 お正月、三人の子どもたちが集まってくれた。そのうち、一番下の娘はお婿さんを連れての初正月となった。それにもかかわらず、今年は残念ながら、あと二人の子どもはそれぞれ、海外と離島に住んでいて、集えなかった。もし全員揃えば、孫もふくめて20人という大所帯になるが、全部で10人と例年の半分程度の集まりとなった。

 振り返ってみれば、一人っ子として育った私は、正月が一番寂しかった。誰も遊び友達が来ないし、それぞれ各家で畏まって新年を迎えていて、隣の家にはそう簡単には近寄れないような雰囲気があった。百人一首、トランプ、かるた取り、果てはマージャンと盛りだくさんの遊びが控えているのだが、一人では面白くないからである。まだテレビも茶の間を席巻しない頃の幼き頃の思い出である。

 長じて、結婚して所帯を持ってからは、キリスト者としてスタートし、お正月と言っても、年末年始にかけ、みことばに親しむのが中心で、かつては教会で、今は長野県の御代田にまで出かけ、信徒同士で聖書のみことばを互いに分かち合うのが習慣になっている。家に帰って家族だけで持つイベントで特段何かをするわけではない。会食し、互いに語り合い、いつの頃からかはその席を利用し、孫にお年玉をプレゼントするのが唯一の楽しみとなった。

 たとえどんなに仏頂面をしていても、「お年玉」と言えば皆、集まってくるし、顔は自然とほころぶのが常であり、それを見るのが私たち夫婦の喜びであった。ところが今年は一番上の孫が高校進学を目前とするまで成長する年頃となった。

 そして、ふと一つのブログの記事を思い出した。6年前のその孫たちとの交流を描いた記事(https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2012/06/blog-post.html)をプリントアウトし、他にも別の書き物をプリントアウトして、お年玉に添えて渡した。成長を感謝すると同時に、何とか孫家族にもイエス様のご存在を知って、まことの平安をいただいて欲しい思いがあったからであった。

 ところが、何と、その孫の家族は何を思ったのか、二組の大どんぶりと大皿を新年早々、家族の初顔合わせに際し、我が家に持ち込んできたのだ。そのどんぶりと皿こそまさに私が6年前にそのエッセーで話題にしている「うどんや」さんからいただいたものであるという。「うどんや」さんは長年開いておられたお店を昨年静かに閉じられて、その孫家族が気に入られ、様々なものを譲ってくださったそうである。それを私たちにもおすそ分けに持ってきてくれたのだ。こうして期せずして、それぞれ別々に思い描いていた試みが、物の見事に一致したのだ。

 孫の高校進学に関して言えば、私にはさらに遡ること、今から27年前のほろ苦い思い出がある。孫の父である我が息子の高校進学に際しての様々な思いである。孫はすっかり成長し、その両親も27年前の私たち夫婦とくらべると落ち着いてその進学に備えているように見えた。でも内実では、外見ではうかがい知れない心配事・苦労があると思う。願わくば、孫の希望と、進学希望先の高校との思いが、それこそかのどんぶりと皿が何の前触れもなしに我が家に持ち込まれた時のように双方の思いがピタリと一致するように望む。昨年のお正月に、この孫にお年玉に添えて贈ったみことばを再度記しておく。

人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまには倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。(詩篇37・23〜24) 

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