2019年1月30日水曜日

あけぼのの翼をかりて(起)

主よ、あなたは私を探り、私を知っておられます。(詩篇139・1)

      小林儀八郎君がロンドンに発つ前夜、我が家の集会にて語りしもの※

 この詩は、その言葉において、信仰において、詩篇の中でも最も麗しいものの一つであります。全篇が6節ずつ四段にわかれています。第一段は1節から6節までで、神の全知を歌っています。先ず、

   エホバよなんぢは我をさぐり
   我をしりたまへり(1)

と心から歌います。この「さぐり」は深く掘ることを意味します。鉱夫が土を深く掘って埋蔵されている鉱石をさぐり出すように、神はわれらの心の中のどんな部分にまでも目を向け、これを見抜いて知って下さるのであります。これはある人々には恐ろしいことですが、多くの誤解と迫害の中にありながら神に対する真心をもつものにとっては、何よりも感謝です。世界中の誰が誤解しても神のみは決して誤解しません。

   なんじはわが坐るをも立つをも知り
   又遠くよりわが念(おも)ひをわきまへ給ふ
   なんじはわが歩むをもわが臥すをも探り出し
   わがもろもろの途をことごとく知り給へり(2、3)

 神はわれらの心のみでなく、起居進退すべての行為を知り給います。正義を行なって誰が誤解しても恐れる必要はありません。

   そは舌に一言(ひとこと)ありとも
   視よエホバよ
   なんぢことごとく知り給ふ
   なんぢは前より後よりわれを囲み
   わが上にその御手をおき給へり(4、5)

 またわれらの言葉ほどよく誤解されるものはありません。いい加減なお世辞は誤解されませんが、深い愛から出た真実な言葉ほど誤解されやすいものです。けれども神はたとい一言でもよく知っていて下さいます。そしてかく深く知って下さるのみでなく、高位の人々を警官が前後左右より囲んで護衛するように、われらを守って下さるのであります。

   かかる知識はいと奇しくて我にすぐ
   また高くして及ぶこと能わず(6)

 実にこれは神のみにできることです。人の決して及ぶことではありません。神にかかる知識をもって知られまた守られていることは何と幸いでしょうか。

(※藤本さんがその集会で語られたと言うこと、それは今からちょうど80年前の東京阿佐ヶ谷で行われた集会でのことだ。『藤本正高著作集第3巻277〜279頁より引用)

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