2009年11月5日木曜日

孤独と痛みに光そそげ


 先頃、一週間の間に相次いで、私よりは年下であったが、60代前半の親しい方お二人がお亡くなりになった。心筋梗塞による突然の死であった。ご家族にとってはショックな出来事だった。気も動転されたことであろう。その後、悲しみのうちに葬儀が執り行われた。葬儀の終わった今は、愛し親まれたご家族が亡くなられたことによる不在感はより一層募っていることであろう。このようなご遺族を前にして私たちはどのようにしてその方々を慰めることができるのであろうか。

 そのようなことを思っているさなかにたまたま次の文章を読んだ。転写しておく。

 「私たちが主のみもとに一緒に集められる。」(二テサロニケ二・一 英欽定訳)
 
 最近、このおことばは、私にとって継続的な慰めとなっています。
この世では、私たちは別離の悲しみにさらされます。何度も会いたいと思う人には、めったに会えないのが世の常です。人生には多くの別れがあります。私たちには、地上で長い間一緒にいられるという保証は、聖書のどこにも与えられていません。
 しかし「私たちが主のみもとに一緒に集められる」というのは、確かな喜びです。毎日毎日が、このように私たちが主のみもとに一緒に集められるという日に限りなく近づいていきます※。
 この地上でも、親しい人と一緒にいることは、実に大きな喜びです。私自身、その喜びを深く味わいました。そうだとしたら、私たちが一緒に天の御国に集められるということは、どんなに大きな喜びであることでしょう。

(『主の道を行かせてください』エミー・カーマイケル著湖浜馨訳312頁より引用。※この意味は聖書本文「私たちの主イエス・キリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められること」の前半の部分を前提としたものである。)

 ここには死を越えた確かな世界が述べられている。今朝の新聞には六本木ヒルズのクリスマスに向けたイルミネーションの点灯が昨夜から始まったことが記されていた。

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方にいのちがあった。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ1・1~5)

とは、ヨハネの福音書の冒頭のことばだ。「罪と死」(やみ)を滅ぼすために来られたイエス様を証しする者でありたい。

(写真は木立ベコニアの花。この可憐な花を造られた造物主こそほめたたえられるべきお方だ。)

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