2009年11月10日火曜日

地下鉄に乗り合わせた人たちの人生


 先週の11月6日(土)に各紙とも地下鉄サリン事件でサリンを散布した豊田・広瀬被告の死刑が確定したニュースを報じていた。東京新聞は論説委員の署名入りの解説記事を載せた。いかに重要なことであるかがわかる。その姿勢は他の各紙が無署名であっただけに印象に残った。

 内容は、二人の被告がいずれも高温超伝導研究や、素粒子研究に携わり始めた研究者であるのに、なぜオウムに走ったか、また今どのような思いでいるかを語り、「麻原死刑囚の弟子にならなければ二人は科学技術の発展に貢献する仕事を続けていたはずだ。地下鉄に乗り合わせた人たちの人生。そして自分たちの人生も、二人はサリンの袋と同時に突き破ってしまった。」と結んでいた。

 他紙も大なり小なり同じような内容であった。一方日経は案外簡単な記事であったが、「履歴書」がノーベル賞を受賞した益川さんの話であっただけに、人生におけるコントラストのちがいを思わざるを得なかった。その他では朝日の報道に一工夫を感じた。豊田被告のもとに通う、大学の先生である伊東乾氏のことに触れていたからである。

 それによると同氏は被告の同級生であり、自身のゼミ生をせっせとその接見に行かせており、再発防止に取り組んでいるということだった。伊東氏は豊田被告と大学の同期で、ともにペアーで実験をした仲間であった。私が知らなかっただけで『さよなら、サイレント・ネイビー(地下鉄に乗った同級生)』の本を著しておられた。早速図書館から借りて大急ぎで読みすすめた。

 3年前の11月21日の奥付きのあるこの本の願いは最高裁による終身刑判決である。それから3年後、結局伊東氏はじめとする方々の願いは届かなかった。伊東氏は単に豊田氏の命乞いのためにこの本を物しているのではない。当の豊田氏自身が寡黙で死刑を甘受するのは当然としているからである。だとすれば、何が伊東氏をしてこのようにこの本を書かせ、今も自身のゼミ生を日参させるのか。

 伊東氏も豊田氏も素粒子物理を目ざした。しかし「素粒子物理は最高の物理学であるというドグマは、私たちの世代の純粋な科学少年たちをマインドコントロールした。だが、その背景は東西冷戦の核兵器開発競争にほかならなかった」(同書200頁)ことに気付く、その上、結局彼らが属した学部、修士課程、博士課程と学びすすめる中で「本質」をつかもうとしても大学の制度の与えるものとギャップがあったことが分析される。豊田氏と伊東氏はともに机を並べ、どちらかというと豊田氏は学科内でも最優秀の学生であった。その彼が博士課程に進む段階でオウムに「拉致」されたという。なぜ「拉致」と言えるのか、また今後この悲惨な地下鉄サリンという事件は繰り返されることがないのか、伊東氏は親友ともいうべき豊田氏の過ちを彼個人の過ちにしないためにも国家全体の検証が必要と考える。

罪を憎んで人を憎まずと言う。だが、私は「オウム」という単語が、多くの普通の人を冷酷な批評家にするのを見てきた。「オウムなんか全員、即刻死刑で当然」といった乱暴なもの言いもたくさん聞いた。実際、豊田が犯した罪は大変重い。カルトの犯罪集団を生ぬるく許すつもりもない。だからこそ、きちんと罪は償われねばならないと思う。私は教団時代の豊田を知らない。実行の瞬間も、いまだに想像することができない。それに近づこうとして乗り込んだ地下鉄だったけれど、やっぱり、いま罪を償おうとしている豊田は、20年前とまったく変わらない、私の大切な友だちだ。

 小さな分岐点がポイントを逆に切り替えていたら、二人の立場は逆だったろう。そして、いまもそのまま、小さな分岐点が私たちの社会に根強く残っている。豊田は私で、私は豊田だ。東大に助教授として招聘が決まったとき、豊田のお母さんはYシャツの生地と仕立券を送ってくださった。それから7年がたった。いまだにYシャツは仕立てられない。」
(同書332頁より)

 伊東氏は戦前の日本の国家体制においてもマインドコントロールは行なわれた。またこの本を物されている2006年のライブドア事件もそうでないかと言う。確かにサイレント・ネービーという言葉があり、それは大英帝国海軍の大航海時代から帝国主義までは通じたかもしれないが、今日それは死語にしなければならない。最高裁のかつてのメンバーであり、今もご高齢の身でご健在の団藤重光氏にも協力を得ながら根気強く事件再発防止のための提言を各所で繰り返しているようだ。

一連のオウム事件から10年以上の月日が流れ、おぞましい印象ばかりが残って、具体的な記憶が風化している今日こそ、過ちを経験した人間自身からの「引き返せ、取り返しのつくうちに」という言葉が、もっと広い層の「わたくしたち」みんなに、もっと形を変えて、もっと言葉を変えて、つねに伝えられてゆくべきだ。それらを確実に生かし、犯罪を防止してゆかねばならないだろう。

 いま多くのオウム事犯は最高裁判所の判断を待つ状態にある。最高裁で問われるのは、極言するなら、憲法に照らして判決の正当性がゆるぎないものであるかという一点である。だから、いま必要なのは、本書で示してきたこと、そのすべてを「憲法解釈の問題」として、厳密に翻案して、法廷で展開することなのだ。

 よく聞かれたい、豊田の弁護団をはじめとするあらゆる弁護士、検事、そしてあらゆる法曹とりわけ最高裁判所第二小法廷の全判事を含む裁判官諸兄姉よ。現行の枠組みの中で、拉致=出家の現場を目撃した私の証言者、その後10年以上を積み上げてきた、問題の所在を示す科学的な根拠を、再発防止のために生かすことができる「憲法解釈の問題」として、正面から論を立てていただけないだろうか。そして、全身全霊をもって、その立証に取り組んでいただきたいのだ。法律のプロフェッショナルでない多くの読者の方々も、自分の問題として一過性の激情に駆られることなく、落ち着いて考えていただきたい。二度と同じ過ちを繰り返さないために、実用に直結する智慧を導き出すこと。これこそ、日本の司法がテロの渦巻く21世紀の国際社会に貢献できる、真に価値ある叡智に他ならない。それは、憲法に照らして最高裁が下す、明確な「最高裁判例」として未来に受け継がれてゆかねばならないものだ。

 未来は決して、裁判官や検事、弁護士だけのものではない。私たち一人一人が選び取るものでなければならない。あなたのいる「いま此処」その地点から、何をすることができるのか。それを慎重に考えようではないか。それは果断に実行に移されなければ、なんの意味もない。そのために、無言のうちに事態を繰り返す「サイレント・ネイビー」の、一見「潔い」姿勢にも、私たちはもうひとつの別れを告げる必要があると思うのだ。黙って責任を取り、あとに同じ過ちを繰り返させるという、「義挙」と誤解される潔い沈黙への別れを。だから私は伝えたいと思うのだ。

 さよなら、サイレント・ネイビー。」(同書344頁以下の抜粋)

 残念ながらこの著者の願いは最高裁には届かなかった。しかし、この本の読者は伊東氏の言を通して真剣にこのことを考え続けることだろう。風化しそうな事件に、そもそも私の耳目をそばだてさせたのは、東京新聞の論説委員の記事であった。それを通して他紙を眺める中でこの伊東氏の著書も知ることができた。それは私自身物理学の入り口にも立てなかった者であるが、その「本質」を理解したいという豊田氏伊東氏また益川氏と共通の願いをかつて持ったことがあるからである。

 伊東氏は豊田氏の真の友となろうとしている。豊田氏にその愛は十分通じているだろう。そして豊田氏は自分の手で人を殺めた己が罪をはっきり悔い改めておられる。それが法廷での他の被告と一線を画した寡黙さにあるという。豊田氏は法廷でいちはやく麻原氏に失望したという。それは真理に殉ずる姿勢のない教祖であったからだという。豊田氏が願ったのは「救済」であったと言う。

 ひとつの事件の背後にどうしようもない人間の罪とそこからの脱却を求めて歩んだ人間の悲劇が垣間見える。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。(新約聖書 ヨハネ10・11~12)
神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(2コリント7・10)


(写真はチェリーセージ)

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