2012年2月16日木曜日

ああ、集会!

 昨日の集会も部屋に入り切れないほどの人が各地から集まって来られ、ともに賛美をし、聖書のことばに耳を傾け、互いに語らう豊かな時が与えられた。以下は352年前のイギリス人バンヤンの告白である。

 神のよき御手に導かれて、5、6年の間私は何ものにも妨げられず、主イエス・キリストの尊い福音を自由に宣べ伝えてきたのであるが、尊い恩寵を通して与えられた祝福のお陰で、私が励ましをうけていた時、人の救いの敵である悪魔は、手下どもの心をそそのかし、私に対して激しい敵意を示すようにさせた。そこで私は、ついに、判事から令状をさし向けられ、捕えられて、投獄された。その始末は次の通りである。

 紀元1660年11月、すなわち今月12日、私は、田舎の友人たちから、ベッドフォド郡ハーリントン町の近くのサムセル村へ説教にきて欲しい、と懇望された。私は行く約束をした。そして神のお許しがあるならば、その日にそこへ出かけることにした。すると、判事(名をフランシス・ウィンゲイトという)は、それを聞き込んで、すぐに私を捕えて、連れてこい、という令状を発し、同時に、集会の行なわれる家をきびしく見張っているよう命令した。それは、まるで私たちがそこに寄り合って、国を滅ぼすために、恐ろしい陰謀でも企てているかのように思われていた。

 ところが、おかしいことには! 警官たちが踏み込んではきたものの、私たちは、手に聖書をもって、神の御言葉を語ったり、聞いたりしているだけであった。なぜならば、私たちはこれから礼拝をはじめようとするところ、 詳しくいえば、私たちは、そこに集まった人たちに、主の言葉を説教するつもりで、まず、その集会に祝福を垂れさせ給え、と神に祈りはじめたところであった。そこへ警官たちが踏み込んできて、私たちを妨げたのである。そして私は捕えられて、否応なしに、部屋から連れ出された。

 けれども、もしも私に卑怯なまねをする気があったら、私は身を隠して、警官の手からのがれることもできたのである。なぜかというと、私がその友人の家を訪れた日に、すでに、私を捕えよ、という令状が出ているから、きっと捕えられるに違いない、という噂を耳にしていたからである。私の友人はその噂をきくと、生まれつきちょっと臆病な人だったので、集会を催したものだろうか、どうだろうか、と私にたずねた。それとも逃げた方がよくはないか、警官たちの手に捕まると、すぐに判事の前へ引き出されて、それから、投獄されるにきまっている、と友人はいってくれた(彼は警官の近くに住んでいたので、彼らの気持ちについては、私よりも、ずっとよく知っていた)。

 それに対して、私は答えた。いけません、断じていけません、私は逃げ隠れはしません。 そんなことのために、集会をやめてはいけません。さあ、元気を出して、しっかりやりましょう。びくびくするのはやめましょう。私たちの志は正しいのです。 私たちは恥ずかしく思う必要はありません。神の言葉を伝えるのは、まことに立派な仕事です。そのために苦しんでも、苦しむだけの立派な報いが与えられるはずです(けれども、友人は彼自身のことよりも、私の身の上を案じている様子であった)。

 それから私は構内※1へ出て、そこで、しんみりと考えた。すると、次のことに気づいた。これまで私は真心をこめて勇敢に説教してきた。有難いことに、私は、多くの人たちを勇気づけるのを私の仕事としていた。それゆえ私は思った。もしも、いま、私自身が逃げたり、隠れたりすれば、近郷近在の不評判者になるであろう。私が口先ほどにも意気地がないとなると、新しく回心した気の弱いキリスト者たちはどうなるであろうか、また、すでに令状が発せられている今に及んで、逃げるとなれば、私は、大切な御言葉を語らねばならぬ大事な時にあたって、彼らをおじけさせることになるであろう。その上、私はこうも考えた。神のあわれみを見ることができたお陰で、私は、かたじけなくも、神から、この国で死地に踏み込んで希望を得るよう抜擢された者である。福音のために身を投げ出すべき最初の人として選ばれたのである。※2

 それゆえ、もしも私が逃げればあとから続いてくるキリスト者全体の士気をくじくことになるであろう。世間の人たちは、私の卑怯をよいことにして、福音をそしり、けがし、私と私の信仰に対して難癖をつけるよい口実にするであろう。このように、あれこれと考えてから、私は再び家の中へ入って、十分覚悟して、集会を催すことにした。

(『罪人らの首長に恩寵溢る』バンヤン著小野武雄訳新教出版社1958年版125頁から引用。※11969年の高村訳では「畑の囲い」とある。※2同じく「決死隊の一員にお選びになったとすれば、すなわち、福音のために真っ先に敵と衝突することになっているなら」)

 同時代、我が日本はキリシタン禁制の高札が立てられ、長崎でキリシタン630名が処刑されている。イギリスの事情は国教会の礼拝に出ないで、聖書だけを大切にしようとした鋳掛け屋のバンヤンを迫害せしめた。これまで彼我の差のみが私の印象にあったが、ところを問わずいつの時代にも福音に敵対する力は働いていることを新たに覚えた。しかし同時にそれにまさり、主のみわざは凄い、としか言いようがない。具体的なことは略すが、昨日も同じことを昼夜の集会で感じた。

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