2012年2月22日水曜日

主のみこころは永遠の神から来る

以下に示すのは、1938年(昭和13年)ごろ生きていた中国人キリスト者の手紙の末尾の挨拶とそのころ語られたメッセージが文章化され出版されようとしていた書物の序文の抜粋である。

 1、 広東省スワトウの陳則信氏の手紙

 今、多くの地域が、わたしたちに来て働くよう招待しています。機会には事欠きませんが、わたしたちはその機会をつかみ取るだけの霊的な内容と力を持っていません。戦況が変わらなければ、もっと多くの地域に行きたいと心から願っています。わたしはまた、主が潮州と梅県の一帯でご自身の証を立ててくださることを望んでいます。陳文光兄弟はのどに病があり、休暇を取って静養するために家に戻りました。人間的な見方をすれば、この地域は責任を負うことのできる兄弟を一時的に失ったかのようです。しかし、主にはいつも良きみこころがあります。エリヤは、自分はイスラエルの預言者の中でただ一人生き残った者であると思いましたが、神にはまだ七千人が残されており、そのうちの一人がエリシャでした。ですから、エリヤがいつ携え上げられるのかとわたしたちが心配する必要はありません。わたしたちが恐れる唯一のことは、エリシャが興されないことです。ここの兄弟姉妹たちはみな無事です。あらゆることは平常どおりであり、それゆえ慰められています。平安がありますように!   あなたの兄弟 則信
1月7日

 2、ウオッチマン・ニー氏の書物の序文

 神は、人の想像や人の思いには何も任せておられません。人は思慮の浅いしもべを使うことを恐れますが、神は、過度に思慮の深いしもべを使うことを求められません。神が人に要求されるすべては、単純な服従です。パウロは、「だれが彼(主)の参謀になったのでしょうか?」と問いました(ローマ11:34)。人は地位に着くことを喜びますが、神は参謀を必要とされません。神聖な働きがどのようになされるかについて、自分が思うことを提案することは、わたしたちの立場にありません。しかし、わたしたちはすべてのことにおいて、「主のみこころは何でしょうか?」と尋ねるのです。

 パリサイ人は、皿の外側は清めましたが、内側は汚れで満ちたままでした。わたしたちの主は、パリサイ人が外側の事柄を非常に重んじたのに、内側の事柄を軽んじたことをしっ責されました。ですから、神の民の多くは主のしっ責から、わたしたちが霊的真理の内側の面を強調しさえすればそれで良いと結論づけます。しかし、神は、内側と外側の両方の清さを要求されます。内側のものなしに外側のものを持つことは、霊的な死です。しかし、外側のものなしに内側のものを持つことは、霊的にされた命にすぎません。

 そして霊的にされることは、霊性ではありません。わたしたちの主は言われました、「これこそ行なうべきことである。もちろん、ささげ物もなおざりにすべきではない」(マタイ23:23)神聖な命令がどれほど無意味に思われようとも、それは神のみこころの表現です。ですから、わたしたちは決してそれを軽々しく取り扱ったりしません。わたしたちは、彼の最も小さい命令を軽んじてそれで良しとすることはできません。彼の要求の重要性は異なるかもしれませんが、神から出て来たすべてのものには、永遠の目的と永遠の価値があります。もちろん、礼拝の外面的な形式を単に順守することには、何の霊的価値もありません。

 霊的な真理のすべては、内側の命に関することであれ外側の命に関することであれ、正しく認められるべきです。すべて神から出て来たことは、外面のことであれ内面のことであれ、それが霊の中にあるなら命です。それが文字の中にあるなら死です。ですから、問題は、それが外面のことであるか内面のことであるかではなく、それが霊の中にあるか文字の中にあるかです。「文字は人を殺しますが、その霊は人に命を与える」(2コリント3:6)。

 わたしたちの願いは、神のすべての御言葉を受け入れ、それを言い表すことです。わたしたちは、パウロとともに次のように言えることを切望します、「わたしは、あなたがたすべてに神のみこころを、しりごみすることなく言い表したからです」(使徒20:27)わたしたちは、神の霊の導きに従うことを求めます。しかし、それと同時に、神の御言葉の中で示されている模範に注意を払うことも求めます。

 その霊の導きは尊いものです。しかし、もし御言葉の模範がなければ、容易にわたしたちの誤りやすい思いと根拠のない感覚がその霊の導きに置き換わってしまい、そして誤りへと陥り、しかもそれに気づかないのです。もし人があらゆる面において神のみこころに服従するよう備えられていないなら、容易に神の御言葉に反する事柄を行なってしまい、それでも自分は神の霊から導きを受けていると思ってしまうのです。わたしたちは、その霊の導きと御言葉の模範の両方に従う必要があることを強調します。なぜなら、わたしたちの方法を書かれた御言葉と比較することによって、わたしたちは自分の導きの源を見いだすことができるからです。その霊の導きは、常に聖書と一致します。

 神は使徒行伝においてある方法で人を導き、今日は別な方法で人を導くということはあり得ません。外面的な事柄においては、導きは多岐にわたるかもしれません。しかし、原則においては、それは常に同じです。なぜなら、神の御心は永遠であり、それゆえ変わることがないからです。神は永遠の神です。神は時間を認められません。そして、神のみこころと方法はすべて、永遠のしるしを帯びています。こうであるので、神は、ある時はある方法で行動し、後になって別の方法で行動するということは、決してあり得ません。状況や実情は異なるかもしれませんが、原則においては、神のみこころと方法は、使徒行伝の時代と今日も全く同じなのです。

(手紙は『開かれた門』101〜102頁『正常なキリスト者の召会生活』17〜19頁からそれぞれ抜粋引用)

神の約束はことごとく、この方において「しかり。」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン。」と言い、神に栄光を帰するのです。(新約聖書 2コリント1:20)

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