もしわたしが今いくつとたずねたら、あなたはきちんと答えてくれるだろうね。「8歳半」「ちょうど10歳すぎたところだよ」「来月で11歳だよ」など。ところで神様の「聖い御子であるイエスさま」のこどものころのことや、12歳で宮におられたことは考えたことはあるだろう。でも、ちょうどあなたと同じ年頃であり、今まさに今日の自分のようなことを経験されたと考えたことはある? イエスさまは8歳、9歳、10歳であることがどういうことなのか、またあなたの経験することはどんなことでも知っておられる。神のことばである聖書は今日までこの一つのこと「イエスは聖なる子」だったとしか語り伝えていないのだよ。
では「聖」とは何だろう? それは傷が何もない、完全に美しく、善で、愛されるすべてのものを意味しているのだよ。これがまさにイエスさまがあなたの年頃そうだったことなのだ。イエスさまはやさしく勇気があり、考え深く、利己的でなく、気高く、誠実で、従順で、愛があり、親切で、赦しを身につけておられた。あなたがかつて他のもののうちに称賛したり愛したりしたものとして考えることのできるものは全部イエスさまのうちに見つけられたのだ。外側だけでなく内側もそうなのだ。だってイエスさまは「聖」だからなのだよ。
じゃあ、イエスさまは、なぜあなたのために来て死ぬ時まで、天にとどまらず地上でこんなふうに聖い少年時代を過ごしたのだろうか。一つの理由はイエスさまはあなたがイエスさまのようになりたいと聖霊なる神様にイエスさまに似る者としてくださいと祈れるように美しい模範を残すことだったのだよ。
けれどももう一つのことはもっと恵み深くすばらしいことなのだ。それは「私たちが、この方にあって、神の義となるため(2コリント5:21)」だったのだよ。すなわちそれは今やすべてのこの善いことや聖いことがあなたのものだとみなされるのだよ。なぜなら、あなたは自分自身のうちに汚い以外のいかなるものも持っていないのだが、神様はイエスさまのゆえにまるであなたが全く従順で、誠実で、利己的でなく、善良であったかのように微笑んでくださり、あなたにイエスさまのご褒美をくださるんだよ。それはあなたが受けるにはふさわしくないものだが、イエスさまがあなたのために受けてくださったものだ。
イエスさまはあなたの罪と引き換えにイエスさまの正しさをくださるのだ。イエスさまはあなたの懲らしめと引き換えにイエスさまのご褒美をくださるのだ。もしあなたがこの交換を受けさえすれば、必ず変えられるのだ。
嬉しい、嬉しい
私のたたえる救い主イエスさま!
イエスさまにあるこどもは
どんなに純粋で聖いものかを示そうと
私のようにこどもになってくださったのですね。
それだけでなく
もし私がイエスさまの跡をついていきたいと願うなら
決して私を忘れられないのですね。
だって、イエスさまは私をそんなにまで愛してくださるのだもの。
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