2010年5月15日土曜日

天国(中) ハーマン・ゴッケル(柴田千頭男訳)

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住 まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あ なたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(新約聖書 ヨハネ 14章1~3)

 父なる神の家についての(この)主(イエス様)のみことばには、ひとつひとつに深い何かがあります。主はかつて、自分がそこにいたものとして、話しておられるのです! 「もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう!」。山頂に立って、はるかむこうの峡谷を見おろし、あとから来る同僚たちにいま見ているものを語って聞かせる人のように、主は、父なる神の家であり、わたしたちのものである家について、語っておられます。永遠の都の通りのひとつひとつに、主は通じておられるのです。父なる神の国の家々が、主の眼前には、はっきり輝いて見えるのです。主は谷のむこうに何があるのか知っておられるのです。主はそこからおいでになったかたです。

 ですから主は、「もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう」と言われるのです。かつて永遠の父なる神の家で、永遠の時を過ごし、そこにいたる道をも知っているかたを、自分の親友として持てるということは、じつに心強い保証ではありませんか。

 罪もないのに、わたしたちのため十字架の上で苦しまれ、死なれ、そこにいたる道を主はわたしたちにひらいてくださったのです! このように、神より来たあがない主のみ手の中に、わたしたちは自分の魂を、この地上だけでなく永遠にわたってゆだねることができるのです。

 この晩、主が少数の忠実な人たちに語ったみことばの中には、ひとつのしらべがあります。――そのとき以来、キリスト者の心に信仰と勇気をそそいでいる、心あたたまるしらべとなったひとつの保証です。

 それは、「また来る!」ということです。ちょうど、子供としばらく離れていなければならなくなった母親が、泣きじゃくるわが子の耳もとで、「また来ますよ」と保証するように、主も、そのきたるべき再臨という慰めの保証をなさって、弟子たちのおそれをなだめようとしたのです。「わたしは、いま去っていかなくてはならないが、しかし、『心を騒がしてはなりません・・・また来て』」と言われているのです。

 聖書の歴史は、主のこのお約束が、それ以来、どんな新鮮な勇気を、おじまどうかれらの心に効果的に与えていったかを告げています。“試練と困難、苦しみと迫害、これらのすべてに耐えぬかなければならないことはたしかだ・・・。しかし、それも主が再びおいでになるときまでなのだ。そのときが来たら、万事が完全にうまくいくのだ”――この世の終わりに再臨があろうと、弟子たちの死の際に再臨があろうと、この再臨ということがかれらの前途をくまなく、こんじきに明るく照らし出してくれたのです。かれらは、再臨の光にむかって進んでいったのです。この光の中においては、いっさいの影は自分たちのうしろになってしまいます。

 救い主の力と恵みに信頼している人たちすべての生活においても、それは同じです。いっさいの悲しみ、いっさいの心痛、いっさいの失望、死別さえも、「わたしは、また来る」という救い主のお約束の甘さの中で、にがさを消されてしまうのです。「わたしはあなたがたの悲しみを喜びに変え、心痛を歓喜に変え、死別を天の父なる神の家での再会に変えるため、再び来る」。

 また、主が父なる神に祈ってこう言われたのも、同じ夜のことです、

「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです」(ヨハネ17:24)。

 そして、これを再び弟子たちに繰り返したときには、主の願いと神の願いが、ひとつの約束になっております。

「また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」(ヨハネ14:3)。

 イエスは、すでに父なる神の認可を得て、ご自分の友が、ご自分と共に父の家で栄光をわかちあえるようになさったのです。そのお苦しみと、死と、復活によって、主は父なる神の家の戸のかぎをお開きになったのです。そして、天がいまや開放された! これが、主が「わたしのいる所に、あなたがたをもおらせる」と言われるわけです。この場合、あなたがたとは、主によって父のところへ来た人々のことです。

 主とともならん とこしなえ(永久)に
 Forever with the Lord!
 あめ(天)なるいのちぞ かぎりもなき
 みむねならば そのいのちを
 いや(卑)しき身にさえ 与えたまえ      (讃美歌483番)

(出典は『イエスがわたしにいみするもの(What Jesus Means to Me)』ハーマン・ゴッケル著柴田千頭男訳コンコーディア社です。この本は、小冊子ですがピリッとした良い本です。内容は「いのち」、「ゆるし」、「平安」、「ちから」、「備え」、「交わり」、「希望」、「真理」、「保証」、「喜び」、そして「天国」となっていますので、この部分は最後に当たるものです。この文章を私がAさんの枕元で朗読している間に、部屋に招き入れられていて最初は吼えていたAさんの愛犬メイ嬢もいつしか足元でスヤスヤと寝入ってしまいました。Aさんは病身の身を横たえながら、私の朗読を静かに聴いておられましたが、衰弱して来られたお顔に心持ちいくらか紅潮<あかみ>がさしてきた思いさえしました。聞き終えての談の中で「メイもお父さんと一緒に天国へ行くんだよ」と語りかけられるのでした。今日の写真はつる薔薇・カクテル。このところ薔薇の花が庭のあちらこちらに咲いて私の気を引きます。毎日不順な気候が続き気温も低く野菜をはじめとして植物の悲鳴が聞こえそうですが、Aさんとともに再臨の主を待ち望む日々でありたいと思います。)

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