2010年5月22日土曜日

虫取り撫子と私


 玄関に「虫取り撫子」が咲いた。ピンクの可憐な花びらを咲かせている。なりは小さいが緑の中で一段と映えて見える。しかし、この花には不思議な仕掛けがある。茎の中ほどに見える茶色がかった部分がそれである。触ってみると粘々する。花に集まってくる虫はこの関門にひっかかり、それ以上上には昇れない、という仕組みだ。「虫取り」という名前の由来するところだろう。造物主によってこの花に埋め込まれた巧みな創造のみわざに改めて感動する。

 しかし、こんな綺麗な花も内なる腐敗が控えている限り、いずれはそれに耐えられずして、いつしか枯れて消え失せて行く。考えてみると、人間にも「良心」という自分を駄目にしようとする働きを阻止する心が備えられている。良心を通して人は道徳的腐敗から守られている。しかしそれはあくまでも外側の問題に過ぎない。人の心の霊的な部分、神様に従うという部分は破壊されたままであり、修繕が効かず、そのままでは滅びるしかない。一人一人に控えている死がその結果である。

 そのような私たちに、「虫取り」や「良心」という内蔵されたものとちがい、私たちの罪のために十字架にかかられ三日後によみがえられたキリストの「いのち」が一人一人に提供されている。今日動植物はじめ人類もまた様々な受難を日々経験している。しかしみことばは次のように語っている。

 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。(新約聖書 ローマ8:18~19、21)

 最後に、ウオッチマン・ニーの「REGENERATION(再生、新生)」という文章を紹介しておく。

 ヨハネによる福音書第三章七節でイエス様は言われました、「あなたがたは新しく生まれなければならない」。この新しいいのちが基本的に必要不可欠です。それは私たちクリスチャンの信仰の本質です。ここに偽クリスチャンと本物のクリスチャンとの相違があります。

 ヨハネの第一の手紙第五章十二節は言います、「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません」。十三節は続けます、「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです」。それは教理や働き、または道徳的振る舞いの問題ではありません。そうではなく、それは神の御子を持っているか持っていないかの問題です。

 人の命に対する神の解決は矯正ではありません。十字架につけることです。神は私たちの古い人をキリストとともに十字架に釘づけました。それ以来、古い人は終わらせられています。今や、わたしたちはキリストともに生きています。キリストが私たちの新しいいのちとなりました。私たちは新しい人です。私たちは新しい開始を待っています。私たちは新しい生き方をすることができます。これらすべてはキリストの中で(父なる)神が成就されたみわざです。

 人はここでは何事も行うこともできません。彼のなし得るすべては(キリストを)信じて受けることです。普通の宗教だけが人を改善し、修養し、改良することを求めます。しかし、キリストは私たちのいのちとなられるのです。

 私が福建省の南部で初めて伝道した時、約千五百人の人々と集会を持ちました。三つの集会のあと、全市の牧師たちは心配になりました。彼らは私を呼んで言いました、「ニー兄弟、私たちがあなたに来て説教していただこうとしたのは、あなたが私たちの会衆に(伝道に)熱心になるよう一生懸命働いて、主にもっと熱心に仕えるよう励ましてくださるものと期待したからです。ところが、ここであなたは、私たちは何もする必要はない、私たちの必要はキリストを受け入れることだけである、と言っておられます。彼らはもともと怠け者です。あなたの説教を聞いてからは、おそらくもっと働くことをしぶるでしょう! あなたはここに訪問に来られただけです。これが終われば、あなたは自由に去ることができます。しかし、私たちはいつまでもここにいるのです! あなたが去られた後、私たちはいったいどういうことになるのでしょうか?」。

 私は言いました、「これは大会の二日目にすぎません。まだ十六日あります。みなさん、少し辛抱して待ってください。終わりがどうなるか見ていただけませんか? キリストの内なる働きは人自身の外側の働きよりはるかに卓越しているのです! もし人が私の宣べ伝える福音を受け入れるなら、彼の中に決定的変化が起こることを、私は信じています」。

 彼らはその時、私の言葉をまだ信じませんでした。しかし、彼らが私を招いた以上、私をやめさせることはできませんでした。結果については、私が全責任を取ると言いましたが、彼らは依然として頭を振って言いました、「これはあまりに危険です!」。しかし、約一週間後、多くの牧師たちがやって来て、わたしに謝って言いました、「神の御子の内側の働きを受け入れることは、全くわたしたち自身の努力よりはるかにまさっています」。

(ウオッチマン・ニーの文章は全集27巻『正常なキリスト者の信仰』223頁から引用させていただきました。引用に当たって一部引用者が表現を変えたところがあります。今日は母が召されてちょうど49年目になる。あの夏日を思わせる長い一日のことは決して忘れることのない悲しい一日であった。しかし、今こうして私は福音に生きる者とされ、「死が終わりでない」ことを日々感謝する者と変えられた。)

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