2010年5月20日木曜日

十八、米と塩(上)


 京都から請負師を頼んできて、ヴォーリズさんの設計した青年会館は、工費三千六百円で四十幾坪の二階建てができることになり、明治三十九年(1906)の十一月から起工して、翌四十年の二月初旬に落成した。

 ヴォーリズさんは大きな希望に輝きつつ、日本にふたたび帰って来たが、福音宣伝のことはそろそろ周囲の形勢が変化したため、青年会館の建築ができるにしたがって、逆比例に、だんだんむつかしく気勢があがらなくなってきた。滋賀商業のなかでは、東本願寺が後援する仏教青年会が盛んになった。時の校長がその愛子を失ってから非常に熱心な他力本願の信者となったことも、キリスト教青年会不振の原因の一つになった。バイブル・クラスも以前ほど盛んでなくなった。わたしはクラスただひとりのクリスチャンで、そのころ熱心に読書をするため、クラスの中で親しくしていた人たちにも無愛想になったのか、だれもわたしの宗教をかまうものがいなくなった。そしてちくちく淋しくなりつつ明治四十年(1907)を迎えた。

 二月十日に新青年会館で献堂式を挙行した。会館は珍しがりで、物好きな聴衆にみたされ、都会から知名の人たちが列席されて、とにかく盛会であった。だが、学生キリスト教青年会はひん死の重態で、バイブル・クラスも人影うすく、ポリ公(ヴォーリズさんのこと)は国賊を養成しているアメリカのスパイだなどと叫ぶものもできた。

 二月の中旬のある寒い日、ヴォーリズさんは貯金を全部ひきだして、京都の請負師に、青年会館建築費を支払った。そして、それから後は、大いに生活程度をさげ、倹約して暮らしてゆくことにして、自分の俸給から、会館の維持費をだし、家具や窓掛けやら敷き物を買うことに決心した。そして台所方面も思い切って金を締めたものだから、会館ができて、今までの暗い借家から新築に移転することになったとき、コックをしていた男が暇をくれといいだして、とうとう無理やりにでていってしまった。 
 
 二月の下旬、わたしとヴォーリズさんのふたりは、手伝いを雇ってきて、少ない荷物を、新築に運んだが、移ってみると、がらんとしていて敷き物も、窓掛けも家具もない、ひろびろした村役場のような感じのする青年会館に、人の香りはただ二つだけで、淋しいものであった。電燈はまだ八幡町には珍しいくらいで、もちろん会館には電燈をつける金がないので移った当時は小さい豆ランプの、五分燈心の光が、ぼんやり、ともっていたような始末であった。

 石油ストーブを買ってきて、ヴォーリズさんとわたしは自炊をすることにした。そして、そのときからふたりは共同生活に入った。

 いよいよ三月がきた。そしてわたしは学校を卒業することになった。会館が建てば大いに学生たちのために活動ができると、夢みた夢が全く裏切られ、献堂式の後の淋しさは、門前すずめの巣や、くもが網を張るという、中国流の形容詞でも、よくいい表わすことができない感じを日々に味わいながら、淋しくふたりで暮らしていた。そしてふたりして、淋しいことを神に訴えたりした。

 卒業式が三月二十五日にあり、わたしは卒業証書を受け取った。母からは、高等商業へゆくかまたはある人の世話でデンマークのコペンハーゲン商科大学に入学するようにとの、二つの道が提出された。そこでわたしは卒業式の終わりに、自分の荷物をまとめる心ずもりをして、会館に帰ってきた。

 ヴォーリズさんが二階の書斎兼応接室にぼんやりしていたが、わたしの姿をみると「ちょっと」といって、わたしを室の中に呼びこんだ。わたしは少し変だと思いながら、すすめられるいすに腰かけると、ヴォーリズさんは、青白く光る顔に強い確信のある目をもってわたしをみた。
 「吉田さん、わたしは今、神さまに祈っていました。わたしは今度、大決心をしました。あなたもいっしょに祈ってください」と話した。
 わたしは不意打ちをくったようだったが、
 「なんですか、どうしたんですか、くわしい話をしてくださいな」というた
 (この項続く)

(『近江の兄弟』吉田悦蔵著より。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。わたしの民がたくさんいるから。」<使徒18:9> どんなに孤独と見えようとも、「わたしがあなたとともにいる」とは変わらざる主の約束だ。果たしてヴォーリズさんの目の前には、 どんな事態が待ち構えていたのだろうか。写真はつる薔薇のその後。一週間ほどの間に見る見る花が咲いた。)

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