2010年5月30日日曜日

わたしの愛のうちにいなさい 


「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい」(ヨハネ15・9)

 私たちの心の家はキリストの愛でなければならない。私たちはキリストの愛の中で一日一日を送らなければならない。私たちの生涯はかくあるべきであり、またそうすることができるとキリストは仰せられている。キリストの愛を家とすることは、絶えずぶどうの木につながっていることである。

 私たちはいつも、より高い、より深い、より豊かな、より充実した生涯ということばを耳にしている。またいつも失敗したり、つまずいてばかりいた人が全く一変して、神に支えられ、力づけられ、喜びにあふれた生活をするようになったというすばらしい証を聞いたこともある。もし私たちがその大きな恵みを受けるようになったわけを尋ねたら、きっと、ただキリストの愛の中につながっただけだという答えが返って来るに違いない。

 神のキリストに対する愛は、感情ではなくて、神のいのちであり、限りないエネルギーであり、とうてい抵抗することのできない力である。この神の愛がキリストが降誕してから十字架につけられて墓に入るまでの生涯を導いたのである。父は子であるキリストを愛し、キリストの中に住み、キリストのためにすべてのことをなさったのである。

 同じように、私たちに対するキリストの愛もまた、キリストが私たちに与えることに喜びを感じられるすべてのものを私たちの中に造り出す限りない生命力である。私たちのクリスチャンの弱点は、キリストの愛が私たちの中でみわざを行っていることを信じようと努力しないところにある。それは私たちが、ぶどうの木が枝をしっかりと支えているのを見ようとしないからである。私たちはキリストだけがなすべきこと、キリストが私たちのために心から喜んでなさることを、私たち自身でしようというむだな努力をするからである。

 さて、キリストの愛を信じることが、前に述べたキリストの愛につながったことにより生じる一大変化の証拠であり、この限りない愛を私たちの内なる魂が知る時に新しい生涯が始まる。「わたしの愛のうちにいなさい」というみことばによって、一瞬一瞬生きていくことができると信じ、すべての困難はキリストが克服されることを信じ、愛は私たちにすべてを与え、けっして私たちを捨てないことを信じ、この信仰によって、私たちはすべてをキリストにゆだね、愛のみわざが私たちの中で行われるようにすることが、ほんとうのクリスチャンの生涯の秘訣である。

 それでは、この信仰に達する方法とは何であろうか。もし私たちが目に見えないものを見つけて、これを手に入れるように願うならば、目に見えるものからまず目を離すべきである。そして、父の愛の中に住み、私たちにもその愛の中に住むことを望んでおられる主をいつも注視し、主といっしょにもっと多くの時間を過ごすべきである。もし私たちの心が主の愛の確かさによって満たされたいと思うならば、私たち自身を、私たちの信念や努力を思い切って捨ててしまうことだ。

 主の中に住むこと以外はすべて捨ててしまって、私たちの心を主とその愛との上に置くべきである。そうすれば主の愛は私たちの信仰を呼び覚まし、強めるであろう。私たちがまず自分自身をキリストの愛で満たし、愛をあがめ、愛の来るのを待ち望もうではないか。そうするならば、愛は私たちのところに来て、その力によって私たちを愛の中に取り入れ、愛を私たちの住まいとすることを、私たちは固く信じることができるようになるのだ。

祈り

「主イエス様。『わたしの愛のうちにいなさい』と言われたあなたのみことばの意味がわかりました。あなたが父の愛の中におられたことが、あなたをぶどうの木としました。そして、そのぶどうの木は私たちのための愛と祝福とで満ち満ちています。私もぶどうの木の枝として、あなたの愛の中につながり、あなたの愛が私を満たし、私の周り一面にあふれ出ますように。 アーメン」。

(『まことのぶどうの木』安部赳夫訳90~93頁引用)

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