2022年8月10日水曜日

弟子たちの頼み事と主の御思い(6)

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者となりなさい。」(マルコ10 ・42〜43)

 彼らの不平に対するイエスの取り扱いが面白い。彼らをなだめもしないし、叱りもしない。不信仰に対してはいつも厳しく譴責し給うのに反して、彼らの憤りに対してはむしろ柔らかすぎると見えるほどである。

 何故であるか。不信仰は神に対する不信任という恐ろしいものであるけれども、この種の不平は幾分か向上心に類いしたものであるから同情し給うたのであろう。されば叱るよりも本当の考え方を懇ろに教え給うたのである。

 大ならんことを願うのは本質的に悪いことではない。この心は一般に人間に与えられた向上心である。けれどもいつも他人と背比べをしている心は面白くない。天国の偉人は自分の偉大さを知らぬ人である。

祈祷
神様、私に生長を与えて下さい。どこまでものびて行く心を与えて下さい。しかし人と背比べして自分の高きを喜ぶ心は、これを取りのけて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著222頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。引き続いてA.B.ブルースの『十二使徒の訓練』下巻71頁から引用させていただく。

 教訓的な意味で、この時のイエスの教えは、教科書として幼児を選んで語られたカペナウムでの教えの反復であった。その時、「偉くなりたいと思う者は子供のようにならなければならない」と言われたように、ここでもイエスは、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」と言われている。

 先の教えにおいて、イエスの用いたモデルまた教科書は子供であった。ここでは、それは価値のない者、卑しむべき者のもう一つの代表である奴隷となっている。ここで、前と同じように、イエスはご自身を模範として引き合いに出して、戒めを強調しておられる。仕えられるためではなく、多くの人のための贖いの代価として、ご自分のいのちを与えるまでに仕えるために来た人の子を示すことによって、謙遜な愛の道において秀でることを求めるよう弟子たちを励ましておられる。その時、イエスは、失われた羊を捜して救う牧者のように人の子が来たことを、彼らに気づかせられた。

 この時期にイエスが弟子たちに与えた教訓における一つの新しい特徴は、支配権の取得方法についてイエスの御国と地上の王国を比較していることである。イエスは、伝えられようとしている教えの序論として、そのことに注意を向けさせられた。イエスはこう言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たち(しばしばその上司よりも暴虐だった地方総督たち)は彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。」

 ここには主要な対比事項のほかに、もう一つ別の対比が暗示されている。それは、世の権力者の苛酷な専制的支配と、神の国においてだけ認められる柔和な愛の支配との対比である。しかし、引き合いに出されたことばの主目的は、権力の用い方における相違よりも、権力を取得する方法における相違を指摘することである。それが言おうとすることはこうである。地上の王国は世襲の特権階級ーー貴族や君主ーーによって支配される。支配階級は、支配することを生得権として与えられている人々で、仕える立場には決して置かれず、いつも仕えられる立場にあることを誇りにしている。それに対してわたしの国では、まず支配される人々のしもべとなることによって偉い人となり、支配者となる。世の国々では、仕えられることを特権とする人々が支配する。神の国では、仕えることを特権と思う人々が支配する。

 言うまでもなく、イエスは、このような対照によって政治を教えようとされたのではない。同胞を支配するという王としての役割が神から授かるべきであるということを認めるためでも、それに異議を唱えるためでもない。イエスはありのままの事実を語られただけで、聴衆はそれが世俗国家、とりわけローマ帝国に見られることを知っていた。もし何か政治的なものがイエスのことばから引き出されるとしたら、それは専制主義や世襲的特権を支持するものではなく、支配階級の出身であると否とにかかわらず、忠実な奉仕によってそれを得た人々の手に実権がゆだねられることを支持するものであろう。神の国において有益なものが、世俗国家にとって害になるはずはないからである。地上の国の真の利益は、万古不易の御国の法にできるかぎり従うように統治されることによって促進されるべきであると言えよう。※王座や王冠は、紛争を防ぐために、個人の功績と無関係に世襲されてもよい。だが、実権は、有能な人々、賢い人々、そして公共の利益のために最も献身的な人々の手に常にゆだねられるべきである。

※余りにもタイムリーなA.B.ブルース〈1831~1899〉の考察ではないか。この文章はすでに何度か指摘しているように、19世紀の作品である。にもかかわらず、その時からすでに120年以上経つことの21世紀、2022年8月10日、第二次岸田政権の組閣がなされている現場に私たちは生かされている。今も万古不易なみことばマルコ10・42は内閣に語りかける!)

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