2022年8月2日火曜日

I thought on the Lamb of God

さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。(マルコ10・32)

 幾度教えられても弟子らはまだメシヤの国の栄光をのみ夢見ていた。イエスの人望は何と言っても、まだ盛んなものである。この民望を後援としてエルサレムに乗り込むならばパリサイ人らを圧倒してメシヤの王国は今にも打ち建てられるであろうと信じていた。

 だがイエスの態度が不思議である。群衆の波には乗らない。何だか悲壮な決心をしておられる様子が主の面貌に見えている。ただ独り先立ちて往き給う。どうもただ事ではない嵐の前の静けさのようである。この不可解で気味の悪い沈黙の後ろから弟子らはオヅオヅとついて往ったのである。

 然り、十字架を正面に見つめて進み往く人の歩みは悲痛ではあるけれどもその足どりはたしかである。十字架を回避して栄光をのみ求むる者の心にはハッキリした苦みもないが不安が雲の如くに漂う。この足どりはシドロモドロである。

祈祷
主イエス様、この世の旅路を歩むにあたり、私をして十字架を回避せしむることなかれ。願わくは、驚き恐れるることなく、しかとこの道を踏み締めて進み往かせ給え。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著214頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下はDavid Smithの『 the Days of His Flesh』の40章 過越の節〈いわい〉へ上られる からの引用である。〈邦訳726頁、原文376頁〉冒頭に英詩が載っている。〈日高善一訳を併載した。味わい深い詩である!〉

All in the April evening. 『初春の夜に
  April airs were abroad;  初春の気は広く漲れり
The sheep with their little Lambs 羔を伴う羊は
  Passed me by on the road. 道の辺の我が側を過ぎ行けり

The lambs were weary, and crying 羔は疲れ果てて啼き叫べり
  With a weak, human cry;   弱々しく、人の如き叫びもて
I thought on the Lamb of God 我は柔和に死に向かわれる
  Going meekly to die.    神の小羊を偲びたり 』
              KATHERINE TYNAN

1 「エフライムへ退避」

  サンヒドリンの決議を知られたイエスはエルサレムにおいて冒険をされなかった。その死なれるべき時期はまだ到らない。ゆえにその到るまでは敵の毒手を避けられねばならなかった。

 もしヨルダン対岸のベタニヤに帰られたならば、敵の毒手に陥られるべきは明らかであった。それでエルサレムの北20マイル、ベテルの東北5マイルにしてユダヤの平原のあたりに当たるエフライムの町に赴かれた。

 エフライムは名もなき町である。ただ麦畑の中にある町でユダヤ人の間には、あたかも英国で『ニューカッスルに石炭を送れ』と言うように『エフライムに藁を送れ』という諺があった。イエスは何故にここに赴かれたのであろうか。一つの理由はエフライムはサマリヤの境であって、万一有司がイエスを捕えようと試みる場合は国境を彼方へ逃れることがおできになったからであった。サマリヤ人はその南方に来られた際冷酷な待遇を与えた〈ルカ9・51〜53〉けれども、畢竟これイエスがエルサレムに向かわれるためにユダヤ人に対する怨恨をイエスに移したものであって、もしイエスがユダヤ人の暴虐の手から逃れんがために彼らの間に投ぜられるならば、彼らは必ずその好感を表してこれを保護するに違いはなかった。

 ただにそれだけでなくエフライムはイエスが伝道の門出に当たって悪魔に試みられなさった荒野に近く、その滞在される間に再びその古戦場を訪れて、勝利の記憶を新たにし、来るべき最後の惨憺たる苦難に備えようと欲せられたのであろう。

2 「エルサレムに向かって出発」

 この地は過越節間近まで滞留せられ、しかるのちエルサレムに向かって十二使徒とともに出発せられた。一同はユダヤの平原を真っ直ぐに旅行せず、12マイル内外西南に向かって進み、エリコの近傍で、北方から来る道と合する道に出た。エフライムからも節に上る礼拝者の一団が出て、イエスならびに十二使徒と同道したのであった。

 巡礼者は聖徒に上るときは喜びの歌を詠って旅する〈詩篇42・4〉のが常であったけれども、この一行はただ黙々として歩んだ。イエスは大股に闊歩せられ、弟子たちは驚駭のうちに、他は恐怖のうちにその後ろに随従するのであった。

 げに彼らに感動を与えたものはイエスの態度であった。イエスはこの旅行の苦悩に赴く所以なるを自ら悟り、天日の中に歩を運ばれつつも、その霊魂は死の陰が漂うのであった。しかも失望せる人の様は少しもなく、弟子を周囲に集めて、その慰安を求めようともせられなかった。イエスは堂々と歩まれ、彼らは未だかつて、王者の風のかくのごとく現われたイエスを見たことはなかった。)

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