2022年8月9日火曜日

弟子たちの頼み事と主の御思い(5)

十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。(マルコ10 ・41〜42)

 ヤコブとヨハネは悪かった。しかしこれを聞いて憤った十人の弟子も同罪である。自分らの心にヤコブ、ヨハネと同じような心が無ければこの種の憤りは起こらぬはずである。人と言うものは他人の悪はよく見えて自分の悪は見えぬものである。

 十人の弟子がヤコブとヨハネに対して憤慨したときの心持ちはきっと自分らは何も特別な要求をしないから悪いところはないが、この兄弟二人は十人を出し抜いたから不都合だと考えたのであろう。

 兄が遠慮して籠の中で一番小さいリンゴをとった。すぐあとから弟は遠慮せずに一番大きいのをとった。これを見た兄はこらえ切れずに大声に叱りつけたと言う。私どもは決して十人の弟子の憤りを笑えない。かような卑しい心持ちをなおすためにイエスは御側近く『彼らを呼び寄せ』給うた。イエスの前にさえ出ればかような心はなおるのである。

祈祷
主イエス様、ヤコブとヨハネを憤る心が私どもにもたくさんあります。そして自分は悪くないのだ。彼が悪いのだと思いやすうございます。

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著221頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。引き続いて、A.B.ブルース著『十二使徒の訓練』の第17章からの引用である。〈同書下巻65頁より引用〉

 二人の弟子が望まなかった特典を約束した後、イエスは次に、彼らの実際に望んだ特典が、無条件にはご自分の思いのままにならないことを説明された。「しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によって備えられた人々があるのです。」このことばから、御国における報酬の授与は全然キリストの掌中にないという印象を受けるかもしれない。しかしながら、それはイエスが言おうとされたこととは違う。むしろこうである。御国の民にその地位を割り当てることはキリストの大権であるが、特別な引立てによって地位に着けることはキリストの権限にはなく、変わることのない正義の原則と御父の主権的な任命とによるのである。

 そのことばは、わかりやすく言い換えると次のようになる。「わたしは、誰にでも『来て、わたしの杯を飲みなさい』と言うことができます。そのかぎりにおいて、情実から生じる悪影響の危険はないからです。しかし、わたしの特別な好意はそこでとどめなければなりません。わたしは、誰に対しても、好きなように『来て、わたしのそばの席にすわりなさい』と言うことはできません。各人はそれぞれ自分に備えられた地位に着かなければなりません。その地位に着くように、その人は備えられているからです。」

 こういうふうに説明されたからと言って、この主の厳粛なことばは、一見して示唆しているばかりか必然的とも思われる推論、すなわち、杯を飲んでも栄冠を失う者がいる、また少なくとも、ある弟子が十字架を負ったキリストと交わりを持っていた程度と、永遠の御国において彼に割り当てられる地位との間には全然関係がない、というような推論に対して何の根拠も与えていない。イエスにそのような教理を教える意図がなかったことは、イエスがいま検討中の言明を語られる直前に、杯と栄光の座、苦難と栄光の間に自然の順序があることをほのめかす質問をされたことから明らかである。

 ペレヤでの十二弟子への約束において深く結び合わされていた犠牲と大きな報酬は、ただ、あらゆる不正を天の御国から排除する厳格さを際立たせるために、ここでは切り離されている。患難においてイエスと行動を共にする恩恵を多く与えられた者は、疑いもなく、永遠の御国において高い地位に着けられるであろう。この言明は、決して御父と万物の主の主権性を傷つけるものではなく、かえって、その確立に貢献する。苦悩は天の御国のための教育であるという単純明快な真理以上に、選びの教理を支持する格好の論証はない。十字架を負うように命じること以上に、神の主権的な御手が現れることがあろうか。もし十字架が私たちを構わずにそっとしておいてくれるなら、私たちも十字架を放っておこう。私たちが苦い杯や血のバプテスマを選ぶのではない。私たちはそれらのために、また、それらのうちに選ばれるのである。神が人々を十字架の戦いへと徴用される。もし誰かが、多くの徴用された兵士がそうだったように、この道〔十字架の道〕によって栄光に入れられるなら、それは少なくとも彼が一番最初に望んでもいなかった栄光にであろう。

 主張された苦難と栄光との結びつきは、選びの教理の確立と共に弁証に役立つ。来るべき世との関係において見ると、その教理は神にえこひいきの責めを負わせかねないように思われるし、また非常に神秘的なものにならざるを得ない。しかし、現在の生活の面から選びを見よ。そうする時、選びの特権は、選ばれた人々がそのことでうらやましがられるようなものではなくなる。なぜなら、選ばれた人々は、幸福な人々でも幸運な人々でもなく、苦難を受ける人々である。事実、彼らが選ばれたのは、彼ら自身のためではなく、世のためであって、荒野を沃地に変える困難でつらい働きにおいて神の開拓者となるためである。彼らが尽くした奉仕に対してほとんど感謝されることもなく、しばしばその報いとして貧困や苦悩が待っているような、世の塩、パン種、光となるためである。

 そういうわけで、結局、選びは選ばれていない人々への恩恵にほかならない。それは広範囲の人々に恵みを施すための神の方法である。選ばれた人々のために用意されている特典は何でも、充分受けるに値するものであり、また、ねたまれるべきものではない。いったい誰が選ばれた人々の将来をうらやむのか。もし彼が喜んでそのように見捨てられた人々〔選ばれた人々〕の仲間になり、現在彼らが受けている患難にあずかろうとするなら、彼もまた彼らと将来の喜びを共にする人となるであろう。

 説明するまでもないが、このことばを語られた時、イエスは祈りの効用を否定しようとされたのではない。「あなたがたが神の国における地位を願い求めても、それを得られない。すべては神がお定めになっているのだから」と言おうとされたのではない。イエスはただ、その二人の弟子や皆に次のことを理解してもらいたかったのである。それは、彼らの要求がかなえられるためには、彼らは自分が求めていることが何であるかを知らなければならないこと、そして、その祈りの答えの中に示されたすべてのものを、将来だけでなく現在においても受け入れなければならないということである。

 この条件はしばしば見逃されている。たとい霊的祝福のためであっても、大胆で野心的な祈りの多くが、その答えに必然的に伴うものが何であるかを知らない嘆願者たちによってささげられている。彼らはもしそのことを知っていたなら、その祈りが答えられない方がよいと思ったであろう。例えば、未熟なキリスト者は聖化されることを願う。しかし、彼らは、あらゆる種類の疑い、誘惑、激しい試みを通じて偉大な聖徒が造られていくことを知っているのだろうか。ある者たちは神の愛の確証を切望し、彼らの選びを完全に信じたいと願う。そういう人々は、悲しみの暗夜に天の星を仰ぎ見ることができるために、繁栄の陽光を奪い去られることに喜んで甘んじるだろうか。ああ! 自分の求めていることを知っている人々の何と少ないことか! 賢い心と正しい精神をもって祈るべき事柄のために祈ることを教えられる必要のある人の何と多いことか!

 ヤコブとヨハネに必要なことを話した後、イエスは次に、彼らの兄弟たち〔仲間の十人の弟子〕に謙遜を教え込むため、時宜を得た忠告を語られた。確かに、十人の弟子は違反者ではなく被害を被った側であったが、それでもなお、そのうちには同じ野望が宿っていた。さもなければ、ヤコブとヨハネの不正行為にそれほどまで向きになって腹を立てるはずはなかったであろう。高慢や利己主義は、謙遜で無死無欲な人々を悩ませ、悲しませる。しかし、高慢な人々や利己的な人々だけは、それに憤りを覚える。他人の悪感情の攻撃に耐える最良の方法は、私たち自身の心中から同様の感情を追い払ってしまうことである。「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互いに生かしなさい」〈ピリピ2・5協会訳〉。そうすれば、あなたがたは、少なくとも反目や虚栄に駆られて行動することはなくなるであろう。

 「このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。」疑いもなく、その後の光景は大変建徳的でないものだった。そこに兄弟たちが心を一つにして集まっている敬虔な情景をよく見たいと願っていたなら、このような光景を見せつけられるのは全くやりきれない。だが、イエスの集団は現実のものであり、空想小説家の創作ではなかった。あらゆる現実の人間社会では、幸福な家庭でも、選り抜きの集団、科学者、文学者、芸術家のそれにおいても、キリスト教会においても、時には試練の嵐が吹き荒れるであろう。その愚かさによってであっても、十二弟子がここに記されているような崇高なことばを発する機会を主に与えたことに、私たちは心から感謝しよう。そのことばは、人間の欲情の荒れ狂う雲間をついて現れる星のように、福音物語の澄み渡った夜空から私たちの上に輝き出ているーー驚くべき深い自己謙卑から語られているが、明らかに神ご自身のことばである。

 興奮した弟子たちに語りかけるイエスの態度は、非常に穏やかで落ち着いたものであった。イエスは、父親が訓戒を授けるために子供たちを集めるように、二人の弟子も他の十人の弟子も、加害者も被害者も、彼らを皆、ご自分の回りに集められた。そして、死に臨もうとする人のような穏やかさと厳粛さをこめて語られた。この場面全体を通じて明らかに、死の厳かな響きが救い主の精神にうかがわれる。イエスは、ご自分が裏切られる夜のことを私たちに思い起こさせることばで、ご自分の受難が近づいていることを語られているのではないだろうか。すなわち、「わたしの杯」という詩的で礼典的な名称を用いてご自分の受難を述べ、初めてその地上生涯の秘密ーーイエスが死のうとしている大目的ーーを明かしておられるのではないだろうか。)  

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